小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

BS『戦争とプロパガンダ:米国戦争戦略』を観る:

2015年12月13日 | 映画・テレビ批評

BS『戦争とプロパガンダ:米国戦争戦略』を観る:

父方の祖母は、生前、父の兄が、戦地から送附してきた手紙を、形見として、大事に、保管しているのを、葬式の後、遺品を整理していて、見つけだした。それを伯父の写真とともにスキャンして、CD-Rにデジタル化して、今でも、保存している。この父の兄は、何でも、佐世保第7特別陸戦隊として、海軍の軍艦で、ギルバート諸島、タラワ環礁の島の最前線警備に派遣され(4600名の兵隊の一員で、アメリカ流に謂えば、海兵隊員のようなものであったであろう事は、想像に難くない)1943年11月に、所謂、『玉砕死』されたと謂われている。但し、この時点では、未だ、玉砕死という言葉は、使用されていなかった訳で、そのように謂われているというのは、遺骨もないし、ましてや、いつ、どのように、戦死したかも、一切、不詳で、英語で言われる、Missing in Action作戦遂行中行方不明というものである。もっとも、それが、遺族には、 祖母に、いつ頃、伝えられ、父が、いつ頃、知ったのかも、今になっては、もっと、詳しく、尋ねておけば良かったとも、思われるが、今となっては、知る術もない。このタラワの闘いは、米国史上で、初めて、従軍カメラマンが、その水陸両用車による初めての海岸上陸から、艦砲射撃・空爆・上陸戦闘・制圧までを、すべて、実写フィルムで、海兵隊員と共に、撮影されたものであると、確かに、カラーで、生々しく、撮影されているが、どうやら、この撮影の目的は、撮影することが、目的では無くて、ノーマン・ハッチという当時のカメラマンによれば、双方、3日間に亘る戦闘の中で、7800人もの死亡が確認されていて、余りに、凄惨すぎて、密かに、ホワイト・ハウスでの試写では、アメリカ兵の死体もすべて、写っていて、余りに、血なまぐさく、刺激が強く、残酷すぎて、逆に、戦意高揚では無くて、むしろ、悪影響を及ぼし、『厭戦気分』を起こしかねないと政治的な判断が下された結果、日本側の激しい抵抗と共に、アメリカ兵の勇敢な戦いぶりと、犠牲を怖れぬ行動を強調するように、意図的に、編集されて、『米国債戦争ボンドの購入キャンペーン』のために、当時、財務省を中心として、情報操作されたそうである。何でも、国家予算の6倍にも匹敵する規模の790億ドルという膨大な戦費の調達が、必要不可欠であった当時には、こうした背景があったそうである。これに対して、この時点では、未だ、米国民のなかでは、60%以上が、太平洋での戦争には、それ程、深刻に考えていなかったのが、実情であったらしい。これまでは、ドラマ仕立ての映画が、作られていたものが、この『タラワの闘い』から、実写フィルムで、Marine at Tarawa という20分の実写フィルムの内、前半は、上陸に苦戦する様を描き、このフィルムは、何と、驚くべき事に、アカデミー賞も受賞して、全米の映画館、及び、学校などで、上映されて、Tarawa There と言う形で、ジェームス・キンブル博士の研究によれば、積極的に、『米国戦時国債の購入キャンペーン』に利用され、その結果、1日半で、予算は、達成されてしまう熱狂であったそうである。しかしながら、当時の政治情勢は、未だ、ナチスドイツの全体主義的なプロパガンダに対して、国として、世論を扇動して、戦争に駆り立てるような行為自体が、そもそも、圧倒的に、米国政府内部でも、指示されていたわけではないらしく、一種の謂わば、恐る恐るという具合であったのであろうか?それが、しかしながら、どのように、戦争の進行と状況の変化の下で、変容をしていったのかが、ここでの主題である。まだ、当時は、Home Front 銃後の闘い、Let’s All Back Attack 援護射撃しよう等という形での強いられたような形では無くて、工場労働者や、家庭での女子の労働力としての協力などの、謂わば、『自発的、自主的な』協力の喚起が、中心であったのも事実であろう。

一方、この頃には、日本では、1943年、学徒出陣や、戦陣訓では無いが、兵力の不足を、学生・少年・女子などへも拡げることで、『軍民一体化』と言う形で、後の『サイパン島玉砕』の悲劇へと繋がっていってしまうし、『カミカゼ特攻』、『切り込み玉砕』、と言う形で、最後には、『沖縄戦・本土決戦』へと突き進んで行ってしまったのは、構成の歴史の語るところである。

当時、皮肉にも、米国では、Operation Phase 1. Saipan というような米兵教育映画が、既に作られていている一方で、タイム誌の記者による、『8000万人の自殺願望』というようなセンセーショナルな日本人の実像とは異なるような狂信的なイメージ宣伝や誹謗中傷記事が、流布されたのも事実であると、ジョン・ダワーは、分析もしている。Fury in the Pacific 太平洋の怒りなどで、確認出来る。この流れの中で、タラワから、サイパン、或いは、ペリリュー島、硫黄島へ、そして、沖縄、原爆投下へと、続いて行くのであると、

あの有名な『硫黄島の戦い』での合衆国の星条旗を掲げる有名な写真と、彫刻が、如何にして、生まれたのかも、実に興味深いものがある。

1944年6月になると、ノルマンディー上陸作戦が行われ、米国民は、これにより、戦争は、程なく、終結するであろうという、やや、楽観的なムードが、漂い始めると、米国の映像戦略も、これに応じる形で、It Can’t Last 長くは続かないという映像で、今度は、海軍相であるフォレスタル長官自らが、硫黄島の作戦に直接現地で参加する形で、100人もの従軍カメラマンで、モーゲンソウ長官の映像戦略の基づき、検閲の強化と米兵の英雄的な行為を示す『戦意高揚』を目的とした映像の作成に着手する。4万人の圧倒的な勢力で、対する日本守備隊2万人との攻防を実写撮影するものの、Mt. Suribachiすり鉢山の山頂に翻る小さな合衆国国旗では、目立つことなく、国民へのアピール力が少ないことから、再度、改めて、6人の海兵隊員が、巨大な国旗を翻そうとしている、『未だ、戦争は、終了すること無く、現在進行形で、進行中である』と言うことを認識させるように、敢えて、撮影し直したそうである。しかも、その5人の内、既に、3人は、後日、戦死し、一番左の先住民後を引く隊員は、その後、戦時国債購買キャンペーンのために、本土に呼び戻されるも、アルコール中毒の後、若くして、死亡してしまったと伝えられている。国旗が、今まさに、立てられんとしている様と、顔を見せずに、必死に、立ててようとしている勇敢な愛国的な海兵隊員に、自らの姿をダブらせながら、『未だ、終了しない戦争に協力、自らも積極的に参加する』と言う世論へ、導かれて勢いづいて行くことになる。この映画の結果、戦時国債の購買も、263億ドルという日本の戦費の半分を、わずか、1ヶ月半で、達成してしまう効果をもたらすことになる。しかしながら、それは、地下壕での徹底抗戦した日本軍により、最悪の2万人以上の死傷者という現実は、『不都合な真実』として、決して、表には、出なかったのであり、これは、戦後、撮影したカメラマンですら、知らなかった、『戦時検閲』の結果であった。皮肉にも、この星条旗が、すり鉢山山頂に掲げられた1ヶ月後で、6人の内、3人が戦死し、日米双方、5万人以上の死傷者という、悲劇の中、250人の隊員の内で、わずかに、27人のみしか、帰還できなかったという残酷な現実があった。その影で、彼らは、そして、今日でも、そうなのかも知れないが、『国にすべてを捧げる英雄』という理想的な形で、『戦時国債キャンペーン』に、利用されていたわけである。

この地下壕での闘いへの米軍の対応には、計算し尽くされた武器、火炎放射器という新兵器も、活用されていたことは、決して、一連の戦争映像戦略とも、無縁では決してない。むしろ、巧妙に、世論の動向と戦争遂行へ向けての計算が、為されていた。とりわけ、『害虫駆除』と称せられた火炎放射器の使用は、沖縄戦でも、如何なく、軍・民を問わずに、容赦なく、過酷にも使用されることになる。

更に、いよいよ、硫黄島の攻略以降に、実施されるようになる『本土爆撃』に対するイデオロギー的な裏付けが、徐々に、やがて、必要になってくる。My Japan とか、 B29 Onto Tokyo等の映像には、『国民へ、戦争への罪悪感を抱かせない心理的な操作』、或いは、『更なる攻撃の必要性への理解』が、仕組まれていた。例えば、中小企業での兵器部品の生産なども、日本では、民間人家庭内でも、兵器が生産されていて、日本軍の軍需工業を支えている故に、これを爆撃、破壊しなければ、我がアメリカ兵が、危険に曝されるという類の、『民間人への無差別攻撃の正当性』、或いは、自国の軍需産業へのリップ・サービスへと、繋がる、成る程、これは、まるで、日本軍による、『ゲリラが、一般市民に紛れている』という考え方にも、その対局で、皮肉にも、繋がっているのかも知れない。

既に、この時点では、1945年3月には、沖縄への攻撃が開始され、軍需工場のみならず、各大都市への本格的な本土空襲も頻繁に行われ、日本国内には、『特攻思想』と、『本土決戦』という究極の思想的な結末が、待ち受けていることになる。これに対して、米国の戦争映像戦略も、いよいよ、『Killed the Japs』という『憎悪』を丸出しにしたものや、や『Know your Enemy, Japan 敵を知れ』という形で、米国、連合国側の『Justice』を、全面に、打ち出し始める。最終的には、この流れの中で、東京大空襲等の民間人への無差別爆撃と広島・長崎への原爆の投下へと結実して行くことになる。更に、この流れの基に、レーダー、原子爆弾、秘密兵器の開発の為の費用の捻出としての開発費の捻出のために、つまりは、巨額な米国の戦費2690億ドルの60%程度が、所謂、戦時国債を国民一人一人が、購入するという愛国的なキャンペーンの結果、賄われたことも、事実である。

如何にして、米国は、国民を戦争へと、自発的に駆り立て、自主的に、物心両面とも、協力してくれるようになったのか、そして、『不都合な真実の隠蔽と検閲』が、どのようにして、巧妙に、実施されていったのか?それは、奇しくも、伯父が玉砕したギルバート諸島のタラワ環礁の闘いで、現場で、初めて、実写撮影したノーマン・ハッチが、それから、2年後の長崎の原爆投下後に、初めて、現場を撮影したときに、抱いた『不都合な事実』への感慨である。決して、このフィルムは、戦後、公開されることが決して無かったわけであるし、その後の東西冷戦下、米ソによる核開発の中で、色褪せていってしまった訳であるのは、御存知の如きである。

我々は、一体、今日、このドキュメンタリーから、何を学ぶ出来なのであろうか?今日、イスラム教への不当な言われなき偏見と差別がある以上、かつて、米国が、日本人に対して行ったような映像的な戦略は、同じように、無人機が映し出すISに対する空爆の有様や、爆撃機の航空母艦からの発進やミサイルの発射を観るときに、どのように、過去を考えたら良いのであろうか?如何に、狂信的なファシズムが、民衆からの支持と支えがない限り、勃興し得ないのと同じくらいに、自由と民主主義を高らかに歌いあげた米国側にも、同じような戦意高揚と排外主義のうねりがあったことを考えると、改めて、戦争というものは、一度、歩み始めると、終わりが見えないこと、それは、既に、戦後のベトナム戦争時でのソンミ村虐殺事件でも、ナパーム弾や枯れ葉剤散布でも、或いは、イラク戦争でも、又、現在進行中の『対テロ戦争』という大義名分の『聖戦』、(もっとも、ISも、ジハードと称しているが、)自体も、同じで有り、危うく見えてくる。それにしても、今は亡き祖母や父が、もし、このカラー・フィルムMarine at Tarawaを観ていたら、どう思ったであろうか?それとも、観たくないとでも、応えたであろうか?日・米双方の現役生存兵は、同じように、『生き地獄』であったと、応えている。死んでいった者も、地獄、生き残った者も、これ又、地獄で、戦争というものは、余りに、無慈悲であること、この上ないものである。