小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

『Implication』なる言葉の概念に考える:

2015年12月25日 | 社会戯評

『Implication』なる言葉の概念に考える:

幕末でも、明治期でも、いつの時代でも、新しい概念という言葉は、それ自体が、日本に、固有に存在しない場合には、日本語へ翻訳をし、且つ、その概念を、日本人自身が、しっかりと、理解することは、とても、難しいのであろうか?それは、まるで、Democracyを民主主義と訳されたり、Baseballが、野球と飜訳されたりした以上に、その違いは、大きいモノなのであろうか?考えてみれば、つい先頃にも、何処かの首相が、嫌韓気分が、そこら中に、蔓延している中で、ここぞとばかりに、慰安婦問題を『あの戦争に関わりの無い、これからの若い人達に、謝罪を続けるという宿命を背負わせてはならない、もっと、未来志向に、、、、、』と、言わしめさせたことを記憶しているが、何でも、この『Implication』なる概念とは、まさに、『直接関与していないにも拘わらず、自分には関係無いというとは云えない、そんな過去との関係性を示した概念』だそうである。これでは、日本語では、一言では、表すること、あたわざるを得ないかも知れない。『連累・含蓄・係累・巻き込みます』とかいう意味合いであるらしい。確かに、『事後の共犯的な関係である』と、例えば、先住民を、フロンティア・スピリッツで、開拓と称して、暴力的に駆逐して、土地を収奪して、その歴史を隠蔽したり、風化させて、その恩恵を『現在』として、甘受しているという現実、考えてみれば、子供の時に映画でよく見た西部劇映画のインディアンも、アボリジニも、或いは、アウシュビッツも、アイヌですら、我々は、必ずしも、無縁とは、云えなくはない。その意味合いからすれば、この使用される言葉とその意味する概念と、そして、何よりも、その概念をしっかりと、自分のモノとして、認識・理解するという工程は、全く、不可分なのであるにも拘わらず、我々は、未だ、理解も認識すら、十分ではないのかも知れない。それは、丁度、戦前の科学に対する誤った認識が、まるで、そっくりそのまま、旧体制が、持続・温存されて、平和・民主主義・科学という3種の神器を信じて、戦後の高度成長期に、モノづくりで、米国に、仇討ちするかの如きものであろう。無意識のうちに、この『戦後生まれの戦争責任』という重い課題も、今や、70年を迎えようとしている現実が、そこにはあるし、この言葉の概念に接してみて、初めて、思いを巡らせることにもなろう。そんな折り、今、まさに、年末のギリギリに、何処かの外務大臣が、最終決着と称して、訪韓を予定している。