小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ゴーン会見から何を学ぶか?:

2020年01月11日 | 社会戯評

 

国法を犯してまで、国外逃亡、密航を果たした等というまるで、幕末時代の吉田松陰の密航を想い出させるような報道であるが、その志は、全く、<天と地の違い>で、レバノンでの自作自演のPR会社と綿密に打ち合わせた協同ショーの効果は、残念ながら、同じ時間帯に生じたトランプの対イランからの攻撃に対する声明に、引きずられる形で、相殺されてしまった感じが、なきにしもあらずである。

それにしても、日本における<人質司法制度>や<取り締まり時点での弁護士の立ち会いがないこと>、或いは、<取り調べでの可視化>とか、<ミランダ警告・自己負罪拒否権>・<司法取引手法>とか、様々な問題が、日本の警察司法制度にはあるにせよ、莫大な金額の<金融商取引法違反や会社法違反による背任横領の容疑>で、保釈中での身柄であるにもかかわらず、カネにものをいわせて、密出国した事実は、どのように、自身の身の潔白を、司法の場以外の空間で、国際世論を味方につけようとしても、なかなか、日本では、或いは、世界的にも、理解されないであろうと思われる。尤も、そもそも、日本や、日本人をターゲット相手に想定しているとも思えない。逆に、日本人というものは、いつまで経っても、<内向きの密室仲間内議論>ばかりであって、決して、<外部へ、世界に向かって発信することを前提にはしていない>ことは、誠に、残念である。

嬉々として、これまでの鬱憤を払うかの如く、<多言語での情報発信者であるゴーン被告>は、まるで、新車発表会のプレゼンテーション張りの独演会であるのに対して、受け手であるメディアの方は、日本側の同時通訳者にしても、結局、英語・フランス語のみで、全く、アラビア語(レバノン)・ポルトガル語(ブラジル)に至っては、何を話しているのか、さっぱり、解らなかったのは、極めて、残念な事である。レバノンの国法である、イスラエル渡航を禁止しているにもかかわらず、そして、ルノー時代には、渡航していることが、問題視されているにも関わらず、イスラエルという言葉は聞き取れたものの、具体的に何を質疑応答しているのかは、解らなかったことは、極めて、残念な事である。それにしても、<選ばれし日本側の記者達>は、一体、どんな真実を追求し、質問できたのであろうか?政府関係者の名前も、エビデンスも公表すると謂っていたにも関わらず、全く、肩すかしであったし、密出国という罪を訴追されることを恐れたのか、或いは、レバノン政府との裏取引での国内外での協力者が、暴露されるのを恐れたのか、今後、小出しにしてくることが、考えられるものの、果たして、どれほどの<日本人が知らない真実>が、あるのであろうか?ドキュメンタリー・番組や、多国語言語で翻訳された暴露本でも作って、高く、メディア関係者に、商業主義さながらに、売りつけるのであろうか?そして、それで、果たして、日産と検察とのクーデター陰謀説で、自身の潔白が証明されるのであろうか?

それにしても、本人が、嬉々として、話せば話すほど、或いは、ジェスチャーたっぷりに、質問に答えれば答えるほど、本質論から、はぐらかされた挙げ句に、<議論のすり替え>で、まるで、<どこかの国の首相にそっくり似てくる>不毛な様相を呈し始めてくる。それにしても、原稿もなしに、1時間以上、4カ国語で、まくし立てられるだけのエネルギーは、流石、百戦錬磨の多国籍グローバル企業経営者で、その点では、たいしたものである。これに対して、深夜での日本の法務大臣の記者会見は、全く、難しい日本語の専用語の羅列で、一体、世界に対して、これで、情報発信やカウンター・メッセージを送っていることになるのであろうか?法務省にも、英語やフランス語・アラビア語・ポルトガル語が、堪能な人間はいるはずで、韓国のミサイル照射事件の時もそうであったが、<多国語言語での広報>の在り方は、全く、問題解決に至ってないこと奇しくも露呈してしまった。英語だけでも、情報発信すれば、日本語の一億人に対して、恐らく、一桁以上の数のオーディエンスに達するであろうが、極めて、残念な対応である。全く、グローバルな広報が当たり前な時代に、前時代的な、内向きな対応は、英語の入試延期問題にも共通するような問題である。

今更ICPOに妻の逮捕請求をしたところで、やらないよりはましかもしれぬが、何故、ファーウェイの副社長のカナダでのGPS機器装着の拘束などにみられるような対応が、裁判所内で、検討されなかったのであろうか?如何にも、お上の中でのガイジン・アレルギーが、はびこっていることを露呈するだけではなくて、旧来型の人間が、旧内務省的な人材から、今日でも、脱皮し切れていないことを、国内外に、奇しくも、露呈してしまったようである。一体、いつになったら、<多国語言語で、同時に、リアルタイムで、グローバルに、意思表示を行える>国に、日本はなれるのであろうか? 何とも、ライブ映像をネットでみていながら、心寒い思いがしたことは、残念至極である。もう、若い人達に期待する以外に手はないのであろうか?おおいに、考えさせられた。