小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画、<モーリタニアン 黒塗りの記録> を観て、思う!

2021年11月08日 | 映画・テレビ批評

=映画、<モーリタニアン 黒塗りの記録> を観て、思う!

 1988年の頃だったか、ワシントンDC に赴任した後輩の自宅を、ロス・アンゼルスから、はるばる、大陸を空路で横断して、家族とともに、尋ねた帰途に、東海岸への旅行も兼ねて、NY観光を愉しんだが、その時に、訪問した世界貿易センタービルのツィン・タワーのキップが、たまたま、ラミネート・フィルムの中に記念に残っている。あれから、12年後に、まさか、あのビルが、9.11テロ現場として、グラウンド・ゼロになるとは、全く想像だにすらしていなかったものである。

コロナ禍が、やや、収まりつつあるせいだろうか、それとも、良い映画というモノは、時代を超えて、人々が、待ち望むせいなのだろうか、映画評論家ではないから、その辺は、不明だが、確かに、ほぼ、満席の状態であったことには、少々驚いてしまった。

それにしても、ジュディー・フォスター他、<タクシー・ドライバー>の14歳での娼婦役以来、<羊たちの沈黙>のFBI捜査官役といい、<告発の行方>、或いは、自身が監督として携わった、映画、<ジョーカー>に出てくるまさに、同じようなシーンを、取り上げた、<マネー・モンスター>など、社会派のテーマについて、圧倒的な存在価値を見せつける演技力で、この映画の中でも、両極端の弁護士として、人権弁護士役を演じている。

先般、観た映画、<ミナマタ、水俣>でのジョニー・デップといい、俳優というモノは、一方で、成功を収めて、一定の金額的な裕福さとは別に、やはり、俳優としての社会的性(さが)のようなモノを捨てきれないものなのだろうか、60歳近い年齢になっても、その演技の中には、<大義と正義のような凜とした生き方としての演技>が、自然と、一本貫かれているのだろうか?

米国という国は、世界の警察官を自負しつつ、一方で、戦争を引き起こしておきながら、或いは、Justiceという正義・大義と真実を、自らの手で、忖度することなく、片一方で、公然と否定しきれるような、そんな懐の深い、国柄なのであろうか?それとも、キリスト教的なクリスチャニティーが、どこかに、バックボーンとして、個人のアイデンティティーの中に、確固として、生き残っているのであろうか?それは、この映画の主人公の相対極に位置する一人の人権弁護士である、ナンシー・ホランダーという女性人権派弁護士と訴追する側の謂わば、米海軍側の検察官(弁護士)である元海兵隊出身で、9.11で殺害された操縦士の友人をもつ、スチュアート・カウチ中佐と言う構図の中で、キューバにある米軍のグアンタナモ収容所には当時、700人以上を裁判なしで不当に拘禁・拘留されている一人として、政府・軍組織による至上命令である、起訴の上での死刑の執行という絶対的な組織的な命令の下、モーリタニア人(=モーリタニアン)の青年モハメドゥ・オールド・サラヒ容疑者に対する、裁判の実話に基づく、社会派映画である。

警察を決して信じることのなかった青年が、奨学金を貰うことで、一族の期待を担って、初めて、警察を信じることが出来る国、ドイツに留学することになるものの、ビン・ラディン一族からの電話を受けたことや、一夜の宿として宿泊させた人物が後の9.11の実行犯だったことから、無実のいわれのなき、全く不条理な嫌疑を掛かられ、同時多発テロの容疑者達と深く関与する首謀者の1人として告発されながらも起訴も裁判もされないまま長期間身柄を拘束され、結局裁判での勝訴後も、通算すると、14年にも及ぶ長期の身柄拘束と、拷問・虐待を受ける結果になる。長いときには1日20時間も、精神的。肉体的な苦痛を味わわされ、或いは、足枷で中腰の苦痛な姿勢を強いたり、光の明滅による刺激を与えたり、ヘビメタの大音量を聞かせたり、更には、水責めをしたり、女性尋問官からの強制的な性的陵辱を受けたり、暴力を受けたり、一方的な人間性の破壊行為を強いられることになる。それでもスラヒは英語を学ながら、耐えぬくものの、姑息にも、尋問官は新たな自白用作戦として、母親を盾に取った脅しの言葉に屈して、自白・供述書へのサインを強要されます。(浅間山荘事件の時も、そうだったことを思い起こすが、、、、、、)それにもかかわらず、手記の製作を継続させ、オンライン裁判へと漕ぎつけることになる。

それにしても、ソ連によるアフガン侵攻以来、サウジや米国によるビン・ラディンへの支援は、公然の秘密であり、後年、これは、アルカイダやISにもつながってゆくことになるが、大国の思惑や方針の転換によって、全く一個人の人生が、踏みにじられることは、いつの時代でも、理不尽であるものの、そういうことが、決して、一個人、自分の身に降りかかってこないとも、誰しもが、言い切れるとは限りません。北朝鮮のキム・ジョンナムの暗殺や、旧KGBによるスパイに対するウラン暗殺やイスラエルのモサドによるアラブ人テロリストや岡本公三への拷問手法、或いは、韓国軍政下での一昔前のKCIAによる拷問や、戦前の特高警察・中野学校による自白強要手法など、現代ですら、中国で問題になっている少数民族への漢民族による民族浄化対策ほか、イラクの捕虜収容所の薬物投与による自白の強要他、アウシュビッツ収容所の問題だけでなく、いつの時代にも、組織的な真実隠しは、MFR (Memorandum for Record)として、我が国でも、暗黒の2.26事件・軍法会議記録や、財務省・厚生省での桜の会・森かけ問題などでも、他人ごとでは決してない。人権保護の在り方、司法の在り方、裁判の在り方、弁護の在り方、証拠・自白の手法、ビデオ公開、訴追の在り方、個人がよって立つべき宗教的・規範や信条・理念とその属する地域・組織・友人・社会的な背景との関係性の在り方、結果的に、友人を失う結果になることのリスクと、その結果への覚悟の問題、一見、イスラム教とキリスト教が、相対立するような印象をあたえるものの、最終的には、釈放されたスラヒ本人が、ボブ・ディランの曲を聞いて一緒に歌いながら、笑いながら、「拷問を受けたけれども、アッラーの神様から与えられた試練、それを私は許す」と、一種、この本人からの楽天的なコメントには、何か、<ある種の救済>を感じざるを得ません。この一言がなければ、或いは、Prosecutor からの<誰でも良いというわけにはゆかない。それが、彼であったとしも、、、、、>という言葉にも、どこか、まだ、大義とか、正義とか、Justice とかいうものが、米国には、あるのかな?と思う反面、我が国には、果たして、そんな人物や、仮に自分自身が、そんな当事者や、容疑者になったら、そこまで、不条理・理不尽さに抵抗出来るだろうかと、考えさせられてしまいます。それにしても、<組織のシステム>ではなくて、結果的には、何か、<情緒的なエモーショナルな人間関係性:友人関係>の中で、<「グアンタナモ収容所 記録用覚書」というファイル、MFR (Memorandum for the Record : 32番のボックスを開けたか?!>と言う情報を、友人であるニールから、スチュアート中佐は聴くことになり、これを、<軍からの組織的な裏切り者呼ばわり>されながらも、相手側のナンシー弁護士と情報共有することになる。

 エンドロールでは、結局、未だに、この基地収容所は廃止されることもなく、CIAも、軍当局も、政府関係機関も、関係者からの組織的な謝罪も、弁明も、改善策もないそうで、ましてや、再発防止策や、第三者委員会による検証などは、どうやら、今日、20年後に至るも、ビン・ラディンの抹殺後も、なされてはいないし、恐らくなされることはないだろう、、、(広島を訪問したオババも、結局、釈放や廃止には至らなかった事実がある。)、、、、。かつて、<日本の黒い霧>とは、良く言ったものだが、今日、こうした<黒塗りの記録は、闇の、又、闇>というような状況で、再び、同じ過ちが、繰り返されない、自分の身には、降りかかってこないと言う保証は、全くなさそうである。心して、このことを肝に銘じて、これからの時代を生き抜いてゆかなければならないような気がする。

ハリウッドと言う伏魔殿は、おかしなモノで、このBBCフィルム製作の映画を、平気で、商業主義第一優先の中で、上映公開してしまうことも、凄いことである。一方、日本の映画界の中で、こんな社会派映画を作れる監督、演じることの出来る俳優が、果たしているのだろうかと考えると、スポンサーも含めて、そんな硬派が、いるのだろうか、それとも、現れる可能性があるのかと、日本映画界で、第二の大島渚は、出現するのかとかとも考えると、暗然としてしまうが、、、、、、、。

是非、若い人にも、観て貰いたい。