=M1グランプリを観る:笑いの科学と方程式
何年かぶりかに、M1グランプリをたまたま、テレビで観る機会を得たが、同時に、その優勝者の決定後にネットのGYAOで、配信された<忖度なしの反省会>というものを併せて観た。成る程、テレビというものも、今や、ネットでの裏番組に、押されるわけで、一般的な上っ面だけでの評論とは、別の面白みが、ネット配信にはあることが、容易に理解されよう。つまり、<笑いの科学>というか、<笑いの方程式>というものが、わかりやすく解説されていて、興味深いものがある。漫才とか、コントなども、演者だけではなくて、原作者をもっと、明らかにして、歌手だけでなくて、作詞家・作曲家ではないが、放送作家やコント作家も名前を公表してみたら如何なものであろうか?むしろ、芥川賞などの作家のデビューを手助けするように、<若手のコント作家を広く公募>して、笑いの方程式や笑いの科学の新たな試みを試すような機会を創出するべきではないだろうか?実際、漫才師は、突っ込みやぼけのどちらかが、原作を作る傾向がある以上、笑い飯のネット上での解説には、一定の重みが感じられた。ボケとツッコミとの往復とか、観客との対話とか、或いは、昔のコント55号が初めて使った掟破りと謂われる画面の横へのはみ出し移動と、(身長差による)縦の伸縮などの手法とか、言葉だけでなくて、様々な視覚的なテクニックとか、言葉というツールを使いながら、笑いの方程式を、次々に、緻密に、論じてゆくものである。どうやら、唯単に、浮かれた感じのおちゃらけやブサイクやキモカワイイを売り物にするキャラクターだけでは、笑いの方程式は完成せず、観客の笑いは、とれないらしい。その意味で、優勝した関東では無名に近いミルクボーイよりも、既に実績のあるかまいたちの方が、<玄人受けする複雑な方程式を提示>していたような気がしてならない。尤も、既にキング・オブ・コントでの実績がある以上、業界的には、苦節10数年のテレビでは無名に近い実績の無い、ミルクボーイの方が、コーンフレークや最中というキー・ワードの中での展開の方を、テレビ的には、吉本興行的には、優先されていたのではないだろうか?業界的には、その方が、丸く各方面の関係筋には良かったことであろうし、優勝者も、次点も、3位も、全て美味しいものではないだろうか?尤も、気の毒なのは、敗者復活からのし上がってきた和牛こそが、冷や飯を食わされたようである。おまけに上沼恵美子から、余計なコメントまでもらった挙げ句に、決定戦を準備中に敗退してしまったことは、悔やまれようが、既に、ある程度の実績を残している以上、仕方ないことではなろうか、ここは、<煮え湯を飲むという選択肢>もやむを得ないのではないだろうか?優勝者を決定するというテレビ的な手法の前では、確かに、<くじ運による順番>も、この<笑いの科学>の前には、方程式通りとはゆかないわけで、<松本人志の特異のツッコミ役の持論>は別にして、インディアンズにしても、ナイツの土屋がコメントしていたように、斬新な歌による掛け合い漫才も、所詮は、トップ・バッターによるある種の基準点のような意味合いも有り、本来は、何らかの+加点でも与えてあげなければ、<審査員による好悪という壁>の前では、撃沈されてしまわざるを得ないのかもしれない。それも又、<ある種の不運>なのかもしれない。それにしても、優勝することで、一夜にして、その知名度が上がり、その瞬間から、その人生も一変するわけだから、厳しいといえば、厳しいものがある。尤も、それすらも、実力がなければ、その後の一年後の活動も、持たないわけであるから、余程、実力が無ければ、全く、話にならないことは、この世界では、当たり前なのかもしれない。それにしても、吉本の会社組織を挙げてのバック・アップ支援と漫才を試す機会を劇場ライブも含めて、総力を挙げて実現する手法は、古典的な寄席中心の落語の世界の営業とは異なり、立川志らく当たりには、羨ましい限りではないだろうか?大御所と謂われる居並ぶ審査員の力量も、<様々な眼に見えない思惑>が垣間見られて、面白いが、それもこれも、GYAOのネット配信でのパンクブーブーや麒麟、笑い飯、ナイツ、小薮による司会の<忖度なしの解説コメント>のお陰だったのかもしれない。ツイッターによる同時コメントを観ながら、ネット視聴するのも、テレビの副音声とは違った意味での新しい楽しみ方なのかもしれない。久しぶりに、なかなか、面白い<表と裏、建前と本音のM1グランプリ>であった。