小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

パラリンピックに考える:

2016年09月16日 | スポーツ

パラリンピックに考える:

これまでの報道姿勢と、若干、NHKや新聞も含めて、パラリンピックに対する報道の姿勢というものが、異なっているように感じるのは、私一人だけであろうか?元々、障害者スポーツという一つの範疇でしか、健常者と称する我々は、見ていなかったが、どうやら、最近では、バリア・フリーではないが、やっと、ある種の色眼鏡を通じて見るのではなくて、その精神力や体力も含めて、自らも、おや、一緒にやってみたら、どんなものであろうかとも、思わせるような気を生じさせるような感じだろうか?とりわけ、何年か前に、スキャンダラスなブレード・ランナーの殺人事件を契機に、面白可笑しく、報じられたものであるが、こんかいのリオ・パラリンピックを観ていると、もはや、そんな見世物を見るような眼は、少なくなりつつあるのではなかろうか?オリンピックとパラリンピックが、同じ土俵の上で、競演しても悪くはなさそうだし、健常者の大会にも、パラリンピアンが一緒に、競技参加しても良さそうなものである。ようするに、健常者と障害者との垣根をなくすような場作り・機会作りが、必要では無かろうか?私が子供の頃の身体障害者のイメージは、復員してきた白い傷病兵服を着込んで、アコーディオンを抱えて、或いは、杖をつきながら、義手に義援金箱を吊した街頭に座り込んでいるか、国電の車内を廻りながら、おねだりする姿が、今も、目に焼き付いているものである。しかしながら、今日、テレビを観ていると、目が不自由でも、脚が切断されていようが、腰から下がなくても、様々なスポーツに、ハイテク車椅子で、自由自在に、パスケットも、走り幅跳びも、水泳でも、出来るものなのであることに驚かざるを得ない。更には、特殊な競技と云っては何であるが、ボッチャとか、ロールボールとか、年寄りでも、アイ・マスクを掛けて、一緒にやってみたら面白そうな競技もある。いずれにせよ、社会の壁を打ち払い、共通の場と交流の場作りが必要不可欠であろう。前回の東京オリンピックの時には、パラリンピックが開催されたことは知っていても、それが、どんな印象を持っていたのか、市川崑監督の映画は、記憶していても、東京パラリンピックの記憶は、有していない。次の2020年のパラリンピックは、どんな記憶に残るのであろうか?もっとも、アメリカ軍の中には、傷病兵を、精神的、肉体的なリハビリの一環として、スポーツを通じて、資源としての部品再生に活用しようと位置づけ、膨大な費用で、パラリンピックへの参加を促しているとの報道もある。

 



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