Margaret Wise Brown詩「詩の絵本」を読む:
図書館から、ネットで、検索して借りてきた。いつもの出たとこ勝負の本屋での立ち読みや歯医者の待合室での読書ではない。同女史は、1910年NY州生まれで、1952年には、亡くなっている訳だから、既に、長い歳月が、経過していることになろう。日本語には、「上から目線」とか、「下から目線」とか謂う言葉があるが、どうやら、絵本には、人間目線ではなくて、動物や植物や虫などの「異なる視点」からの「ものの見方・眺め方」を、子供も含めた私達人間に、改めて、教えてくれる効果がありそうである。それは、丁度、この本を通じて、作者は、身近な自然の景色・事象や、小動物達や虫や魚を通して、具体的に、どうしたら、というよりも、子供達に、その読書の間に、子供の中で生じるであろう「想像力」を膨らませることで、それらを感じ取る誰しもが有する天賦の生まれ持ってきた「五感」を研ぎ澄ますことが、重要であると訴えているような気がしてならない。それは、逆説的に謂えば、皮肉にも、私達、大人に対しても、子供達同様に、今日、必要不可欠ではなかろうかと、問題提起しているのかも知れない。そして、最後に、「詩が、言葉の音楽であり、言葉の唄こそが、詩である」ということを、子供達に、学んで貰おうとしているとしたら、
「虫の唄」では、身近な小さな虫たちの眼から眺める未知なる大空の広さ、飛べない虫たちから見た羽を持った虫たちへの憧れ、「自分達の夢」をあたかも託すかのように、大空へ飛翔する虫たちの視点・目線、或いは、葉っぱのてっぺんから眺めた空間と距離感、それは、子供達の「不安や未知」なるもの、「将来への不安」とも重なるであろうものであることは、容易に、想像に難くないし、又、小さな虫たちは、それすら、乗り越えて、勇気を持って、「未来に飛翔」してゆくものであることを、知らず知らずのうちに、語りかけているのかも知れない。そして、聞き手である読者は、やさしく、「心配はいらないよ」と暗黙のうちに、語りかけていることを、きっと納得するのであろう。
「耳を澄まして聴いてごらん: 秘密のうた」、バラの花びらが落ちる音、夕焼けが鳥を染める瞬間、霧が降り始める時、太陽の光が射し始める時、石の上を蔽う苔の成長、「眼には見えない瞬間、瞬間」の音や光、まるで、超スローモーション映像でしか、捉えることの出来ない瞬間を、「想像力=創造力でもあるのか」という力で、耳を澄まして、観てご覧と、、、、、、。
「眼を閉じて」、「鼓動」、小さな動物たちの一挙手一投足の中に、それらの生きている「心臓の鼓動」を感じたり、「心の中の優しい鼓動、穏やかになっている鼓動、生きている実感・生命の躍動感」を、子供達は、作者と共に、或いは、読み手・語り部と一緒になって、共有し、共感するのかも知れない。
「どうして、春がきたってわかるの?」、四季折々の豊かな自然を通して、季節の移ろいを、子供達に実感させ、最後に、「言葉の音楽」、「言葉の唄」が、「詩」というものであることで、さりげなく、締めくくっている。読み聞かせるも良し、イラストの絵だけを観て、聞くも良し、次第に、瞼が重くなって、想像力と共に、眠りの世界に、導かれるのも、又、良ろしいのではなかろうか。そして、子度達が、その眠りから、目を覚ましたときには、きっと、未来に対して、身近な動物や、虫たちや、植物や、みんなに対して、決して、負けないように、しっかりと、勇気を持って、飛翔しようとする「明日に向けての新しい力」が、きっと、知らず知らずのうちに、備わっていることであろう。絵本には、読んでいる間に、そんな心に作用する「秘密の薬効」が、あるのかも知れない。文字と絵とは、60年以上を経過しても、時空を超えて、直接的に、一人一人の心に、響いてくるものなのであろう。なかなか、色あせない内容であるし、今でも、読み継がれる理由が分かろう。
図書館から、ネットで、検索して借りてきた。いつもの出たとこ勝負の本屋での立ち読みや歯医者の待合室での読書ではない。同女史は、1910年NY州生まれで、1952年には、亡くなっている訳だから、既に、長い歳月が、経過していることになろう。日本語には、「上から目線」とか、「下から目線」とか謂う言葉があるが、どうやら、絵本には、人間目線ではなくて、動物や植物や虫などの「異なる視点」からの「ものの見方・眺め方」を、子供も含めた私達人間に、改めて、教えてくれる効果がありそうである。それは、丁度、この本を通じて、作者は、身近な自然の景色・事象や、小動物達や虫や魚を通して、具体的に、どうしたら、というよりも、子供達に、その読書の間に、子供の中で生じるであろう「想像力」を膨らませることで、それらを感じ取る誰しもが有する天賦の生まれ持ってきた「五感」を研ぎ澄ますことが、重要であると訴えているような気がしてならない。それは、逆説的に謂えば、皮肉にも、私達、大人に対しても、子供達同様に、今日、必要不可欠ではなかろうかと、問題提起しているのかも知れない。そして、最後に、「詩が、言葉の音楽であり、言葉の唄こそが、詩である」ということを、子供達に、学んで貰おうとしているとしたら、
「虫の唄」では、身近な小さな虫たちの眼から眺める未知なる大空の広さ、飛べない虫たちから見た羽を持った虫たちへの憧れ、「自分達の夢」をあたかも託すかのように、大空へ飛翔する虫たちの視点・目線、或いは、葉っぱのてっぺんから眺めた空間と距離感、それは、子供達の「不安や未知」なるもの、「将来への不安」とも重なるであろうものであることは、容易に、想像に難くないし、又、小さな虫たちは、それすら、乗り越えて、勇気を持って、「未来に飛翔」してゆくものであることを、知らず知らずのうちに、語りかけているのかも知れない。そして、聞き手である読者は、やさしく、「心配はいらないよ」と暗黙のうちに、語りかけていることを、きっと納得するのであろう。
「耳を澄まして聴いてごらん: 秘密のうた」、バラの花びらが落ちる音、夕焼けが鳥を染める瞬間、霧が降り始める時、太陽の光が射し始める時、石の上を蔽う苔の成長、「眼には見えない瞬間、瞬間」の音や光、まるで、超スローモーション映像でしか、捉えることの出来ない瞬間を、「想像力=創造力でもあるのか」という力で、耳を澄まして、観てご覧と、、、、、、。
「眼を閉じて」、「鼓動」、小さな動物たちの一挙手一投足の中に、それらの生きている「心臓の鼓動」を感じたり、「心の中の優しい鼓動、穏やかになっている鼓動、生きている実感・生命の躍動感」を、子供達は、作者と共に、或いは、読み手・語り部と一緒になって、共有し、共感するのかも知れない。
「どうして、春がきたってわかるの?」、四季折々の豊かな自然を通して、季節の移ろいを、子供達に実感させ、最後に、「言葉の音楽」、「言葉の唄」が、「詩」というものであることで、さりげなく、締めくくっている。読み聞かせるも良し、イラストの絵だけを観て、聞くも良し、次第に、瞼が重くなって、想像力と共に、眠りの世界に、導かれるのも、又、良ろしいのではなかろうか。そして、子度達が、その眠りから、目を覚ましたときには、きっと、未来に対して、身近な動物や、虫たちや、植物や、みんなに対して、決して、負けないように、しっかりと、勇気を持って、飛翔しようとする「明日に向けての新しい力」が、きっと、知らず知らずのうちに、備わっていることであろう。絵本には、読んでいる間に、そんな心に作用する「秘密の薬効」が、あるのかも知れない。文字と絵とは、60年以上を経過しても、時空を超えて、直接的に、一人一人の心に、響いてくるものなのであろう。なかなか、色あせない内容であるし、今でも、読み継がれる理由が分かろう。