小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

武蔵野の動物愛護団体による捨て犬同窓会

2012年08月16日 | 動物・ペット
武蔵野の動物愛護団体による捨て犬同窓会
沖縄のNPOと協力して、武蔵野の動物愛護団体が、これまでに里親を紹介した120匹の捨て犬達の同窓会を開くそうであるという新聞の片隅の小さな記事に、ふと、眼が止まった。我が老犬も、1995年に未だ、推定3ヶ月という子犬の時に、大田区の城南島にある動物愛護センターで、4匹の姉妹犬の1匹として、2日に亘る講習の結果、我が家に引き取られ、今日まで、家族の一員として、子供達の成長を見つめ、私の両親を見送り、耳と目が不自由になりながらも、何とか、やっと立って、とぼとぼ、今でも、散歩をしている。既に、その姉妹とおぼしき姉妹犬(どちらが、姉で、妹かは、分からずしまいではあるが、、、、、)との偶然の遭遇については、ブログでも書いたが、兄弟や、姉妹とおぼしき犬たちとの再会の機会を、設けてくれるこうした団体の取り組みは、素晴らしいことである。沖縄では、「一人散歩」という言葉があるように、犬が、自由気儘に、ふらふらと、散歩するのが、当たり前だそうである。我が老犬も、その昔には、小諸の里山で、自由気儘に、谷底まで、降りてゆき、どういう訳か、肥料の袋をくわえて持ち帰り、そのくさい臭いに、閉口した想い出がある。まだ、その頃は、リードで、繋いだりして、散歩をしなくても、誰も迷惑をしなかった頃であるが、今では、そういう訳にもゆかず、一定のルールが、敷かれることになった。何とも犬にとっては、迷惑な話であろうが、これも、人間との共生の下では、やむを得ないかも知れない。捨て犬同士が、再会して、新しい人生の中で、その幸せを再確認できるこうした企画は、素晴らしいことであると思われる。我が老犬の残された姉妹犬たちは、今、どうしているだろうか?、、、、、、、、と。

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「裸官」と言う言葉について考えてみる

2012年08月15日 | 社会戯評
「裸官」と言う言葉について考えてみる
中国の民衆というものは、実に、面白い言葉を紡ぐものである。一人っ子政策を揶揄した「小皇帝」とか、「裸官」、まるで、「裸の王様」を連想させるような言葉であるが、、、、、、、。本当の意味は、「公権力を使って、賄賂などの不正収入を得た党幹部がまずは、子供を海外留学させ、次に、妻も移民させて、資金を海外に移していること」を示す言葉であるそうである。家族や資産は、海外で、幹部だけが国内に残ることから、「裸の官僚」という意味であるらしい。最近では、重慶の簿事件以来、汚職官僚自身が、発覚を恐れて、海外逃亡を図ろうとすらしていると、、、、、、。我々と同じ世代の中国の人達は、所謂、「紅衛兵世代」である。数多くの当時の若者が、「下放」と称して、辺境の地へ、労働教育に、ペンを鎌に取り替えて、農作業へと向かったものである。そこで、結婚して、土着化して、農民になった数多くの有為の青年達もいたことであろう、又、成田闘争の中で、農民支援の中で、現地で、結婚して、農民の道を選択した人達もいるが、、、、、、、。「習金平」らの「太子党」師弟等の香港不動産の買いあさりなど、何処まで行ったら、彼の国は、「不条理と格差の拡大」が、納まるのであろうか?党幹部の家族の資産公開とか、株式保有高の情報公開とか、いつになったら、「紅い貴族達」の既得権益は、そのマネー・ロンダリング手法とともに、白日の下に、晒されるのであろうか?それにしても、一国二制度を、巧みに、利用して、日本人の金銭感覚でも、ビックリするような金額が、いとも簡単に、海外移転されている現状は、中国の民衆の怒りを、いつの日にか、必ずや、何らかの別の形で、買うことになろうことは、明かであろう。それにしても、ハーバード大学やエール大学は、そんなに、優秀な(?)師弟を、本当に、正規に、入学許可しているのであろうか?多いに、疑問である。「裸官」という言葉について、一寸、考えてみた。下放された、今や、初老の人達は、どう考えているのであろうか?、、、、、、、、と。毛沢東、周恩来や鄧小平ですら、これ程までの今日的腐敗の凄まじさを想像出来たであろうか?排外主義的な「愛国・反日」という仮面の下、実際には、私服を肥やす構造は、いつの時代も、変わらぬ手法なのか?重慶の簿事件の解明同様、この言葉の裏側に潜む名もなき多数の民衆の声は、いつになったら、天に届くのであろうか?



病床で、再び読む「棺一基」大道寺全句集!

2012年08月14日 | 俳句・漢詩
病床で、再び読む「棺一基」大道寺全句集!
子規は、根岸の家で、脊椎カリエスの痛みの中で、発句に努めたが、身体の自由が奪われると言うことと、精神の自由とは、どういう関係性があるのかと、ふと、病床で、寝返りも打てない状態で、考えてみた。大道寺も、又、同様に、多発性骨髄症を患い、肉体的な苦痛とともに、明日をも知れぬ死刑囚という無言の精神的な圧迫の中で、どのようにして、発句したのだろうかと、やはり、病床で、読み返しながら、考えてみた。ベランダの木陰で読むのと、病床で読むのとでは、自ずと、句に対する読み方が、違うような気がした。多少は、身体的な拘束の苦痛が、分かったような気がしてならなくもない。東京拘置所は、建物の中に、監獄が二重に据えられていると言われている。風景も季節の移ろいも、実感出来ないような構造になっていると、報道特集は、報じていたが、、、、、、もし、そうであるならば、句の中の様々な客体は、自分の主体と一体化し、擬人化して、自己の精神をそこに投影するのであろうか?しかし、それは、決して、実際に、目視できる現実の客体ではなく、大道寺の記憶の中にある残像ではなかろうか?或いは、頭の中で、想像した情景やら風景やらの客体なのではないだろうか?そこに、どれ程までの17文字の情感を投影できるのであろうか?もはや、そこには、「季語」と呼ばれるものは、想像を超えた地平に、位置しているとしか思えない。
そうして、改めて、病床で、次の句を読み直してみると、(私的に、勝手に選んでみたが、、、、)ベランダの木陰で、読むのとは、異なった感慨が、生まれてくるものがあるようである。いつもとは違った風景が、そこには、又、見えてくる。
(又、段々、多くなってきてしまった。)是非、皆さんには、実際の本で、読んで貰いたいものである。

実存を賭して手を擦る冬の蝿
一身に木の芽の声を聞きをりぬ
うつそみの置きどころなき花吹雪
紛れざる木犀の香と哀しみと
海鳥の一声高く海氷る
鈍(にび)色(いろ)の空置き去りに帰る雁
紫陽花の色調(ととの)はず散りにけり
百合の香や記憶の襞(ひだ)のそそめけり
暗闇の陰翳刻む初蛍




女子バレーも「情報戦、IDバレー」か?

2012年08月13日 | 社会戯評
女子バレーも「情報戦、IDバレー」か?
女子バレーは、東京オリンピックの頃の東洋の魔女時代は、いざ知らず、これまで、某TV局の世界選手権など、余り、興味を持てなかった。何せ、米国駐在時代に、たまたま、1984年のロス五輪の開会式のチケットを持つ日本人が、どうしても、都合で、来られないというので、急遽、代理で、現地観戦することになったことがあるが、USA,USA、、、という蝉の鳴き声のような大合唱が、嫌いで、又、ニッポン・チャチャチャとか、2本の棒のような物で、得点されると叩いて、喜ぶ様が、何とも、個人的に、「不快」に思えて仕方ならなかった。鳴り物入りの笛や太鼓の組織的な応援は、如何にも、その国の民度の低さを表しているようで、肯んぜられない、不快感があるものである。今や、チャイヨーもそうであるが、、、、、、。もっとも、早慶戦などは、両校の応援やエールの交換がないと、何とも味気ない物のようにも、思われるが、、、、、。それはさておき、今回は、手術後の自宅リハビリ療養中でもあり、結構、深夜でもTV観戦の時間が多い。女子バレーの3位決定戦は、公募で選出された眞鍋監督が、何やら、手首に、タブレット端末のようなものを卓球のラケットのように、持っていたが、報道によれば、細かいデータをPCに試合中でも、それ以前、以後にも、スタッフが、収拾して、徹夜で分析し、傾向と対策をスタッフとともに、具体的に、現場で、監督から選手に指示しているそうである。何とも、ここまでくると、もう「情報戦」、ID(Important Data)バレー以外の何物でもない。鬼の大松の根性や回転レシーブだけでは、済まされないモノがある。今や、コーチ、専任スタッフに求められるのは、精神的な指導や技術アドバイスのみならず、具体的な戦術論までに落とし込んだ具体的な身体的・精神的な対応策が、キチンと、その緊迫する場面、場面で、出来るかどうかであろう、、、、、、、。野球の野村元監督が、密かに、微笑んでいるのではないだろうか?、、、、、、、。いやはや、すごい時代になったものである。今に、選手もスマホを片腕に巻いて、レシーブやアタック、サインを交換するそんな時代が来るかも知れない。奇しくも、28年ぶりのロス五輪以来の銅メダルとは、、、、、、、、。そんな情報戦も、結局、海外のチームにも浸透して、更なる進化を遂げることであろう。どんな進化がなされるのか、今後、愉しみでもあるが、、、、、、、、。



BS朝日、小倉・住吉のおスミつき「辻井伸行Xモーツァルト」

2012年08月12日 | 映画・テレビ批評
BS朝日、小倉・住吉のおスミつき「辻井伸行Xモーツァルト」
フェースブックのファンサイトからの案内で、この番組を知り、聴いてみた。何もクラシック・ファンでもなければ、ショパンやモーツァルトに、蘊蓄があるわけでもない。ただ、辻井伸行のピアノの演奏を聴いてみたかったのである。トルコ行進曲も、4人の個性的なピアニスト達の弾き方、独自の解釈の仕方が、あること、貴族風な王朝文化を漂わせた華麗な弾き方、当時のピアノの音に極めて似た音を出すピアノによる演奏、個性的なゆっくりとしたリズムの弾き方、更には、ジャズっぽく演奏するトルコ行進曲、それらを、辻井独自に、解釈して、演奏する。又、右手だけでしか弾けない私のようなド素人の「きらきら星」の「ドドソソララソ、ファファミミレレド、、、、、、」というメロディーラインが、何と第13変奏曲までに、変容するという「音楽の魔術」、ピアノの弾き方、随分、音楽という代物は、全く、奥が深いことに、改めて、驚かされる。更には、鳥のさえずりや、風の音、せせらぎの音も、即興で、ピアノで弾いてしまう才能とは、、、、、どうなっているのであろうか?もっとも、二人の会話から番組のイメージを、請われるままに、即興で旋律に乗せてしまい、目の前で聞き入る住吉の感涙を誘発させてしまうとは、、、、、、。映画音楽、即興音楽、作曲など、このピアニストは、ショパンやモーツァルトの解釈だけではなくて、何処まで、その才能を開花させて行くのであろうか?明き盲で、右手でしかピアノが弾けない自分でも、このメロディーラインを聴いていると、不思議と、音楽というモノが、「身近な存在」に感じられたのは、どういうマジックだったのであろうか?今後のますますの活躍を期待してみたくなった。一度、生の演奏を聴きたいものであるが、、、、、。なかなか、チケットが、入手出来ない。分かりやすい解説も、ド素人には、多いに、助かった。



韓国大統領による竹島訪問強行

2012年08月11日 | 社会戯評
韓国大統領による竹島訪問強行
報道されているので、一寸、気に懸かり、ネットで、基本的な情報を収集してみた。島根県が制定したという竹島の日が、あるのは知っていても、それが、いつの日なのかは、実際知らない。2005年に、2月22日を竹島の日と制定したらしい。子供の頃、数多くの漁民が、李承晩大統領が、サンフランシスコ講和条約の調印前、1952年に一方的に制定した所謂、「李承晩ライン」で、1965年の日韓基本条約の締結までに、328隻もの多数の漁船が拿捕され、漁労長が、銃撃で、殺害されたり、巡視船への発砲などの事件があったことを、子供の頃の記憶に、残っている。遡ること、1951年には、米国のラスク書簡で、米国政府は、竹島を日本の領土と韓国側に確認しているものの、韓国側は、国際司法裁判所への提訴を拒否し続け、1955年4月20日以降、駐屯部隊を、駐留させ続けて、実効支配を主張し続けて、今日に至っている。何とも、この事件の報道すら、私には、記憶が定かではない。要するに、我が国とかの国との間には、「国内教育・報道・広報の在り方」に於いて、大いなる情報発信の巧拙で、差がありすぎる。国内的に、常に、矛盾を、「反日」を国是として、靖国・歴史認識、慰安婦問題と絡めて、常に、灼けぼっ栗が、時に応じて、忘れた頃に、様々な形で、反日・愛国という名の下に、民族心の誇りの高揚という形で、火がつき始めるのではないだろうか?日本という国は、戦後、民族主義を、止揚するような似非国際主義の下で、国際的に、奇跡の経済復興を成し遂げてきたが、それは、経済的であって、決して、政治的に、成功したわけでは決してなかった。むしろ、そういう考え方を、極力しないように、してはならないという教えを課しながら、戦後、玉虫色に、まるで、原発、原子力政策がそうであったように、すべてを玉虫色で、何とか、穏便に、済ませてきた歴史がある。尖閣諸島の問題も、北方領土の問題も、然り、解散時期の解釈をめぐる議論も然り、戦後政治の闇に、そのまま、埋もれさせてきた様々な諸問題が、今や、亡霊のように、突然、頭をもたげ出し始めている。韓流芸能ブームに浮かれている間にも、着々と、かの国は、広報と実効支配を訴え続けるであろう。ソフト・パワー、外交の手腕とが、真に、問われているものの、島嶼での最悪のシナリオである予期せぬ軍事衝突をも、憲法の枠内で、事前に、想定しているのであろうか?それにしても、生レバ刺しを、韓国に、食べに行っている時ではないだろうに、、、、、、、。日本海の表記を巡る問題とも合わせて、ますます、民族主義の高まりは、経済的な自信と相俟って、高まる傾向があるが、「勝てば官軍」的な考えの拡がりを懸念せざるを得ない。保守化の沸点は、何処まで行ったら、爆発するのであろうかと、心配になる。週末には、男子サッカー、女子バレーボールの3位決定戦が組まれているのは、何とも、皮肉でもある。レイムダックのイ・ミョンバク政権の国内問題などとのんびりとコメントしていては、根本的な問題解決にはなりそうもないのではないだろうか、、、、、、、、。お互いの過去を忘れない、未来志向は、何処へ行ってしまったのであろうか?




禁止牛生レバ刺しが、韓国で、食べられるという現実

2012年08月10日 | 社会戯評
禁止牛生レバ刺しが、韓国で、食べられるという現実
何とも、摩訶不思議な法律である。O-157の存在の可能性がある故に、日本の厚生労働省は、生食での牛のレバ刺しを国内で禁止したが、それと同時に、日本人観光旅行者が、大挙して、自己責任と称して、韓国の屋台へ、牛のレバ刺しを食べに行っているのだそうである。何とも、超ウォン安と超円高のお陰で、今や、その現地価格も、日本のそれに比べたら、全く、日本人の懐を痛ますようなことはないであろう。既に、国境を越えて、食の安全・安心のグローバル・スタンダード規制は、いとも、簡単に、乗り越えられているのが現実である。随分、昔になるが、未だ、米国で、寿司や、日本食が普及していなかった頃、素手で、寿司を握ることを州法で禁止しようとする動きがあったが、日本の法律を超えて、日本人の胃袋は、海峡を軽く越えて、満腹感をトコトン、追究・愉しもうとしている。一体、役所の法律は、どうなっているのであろうか?その知恵の逞しさと韓国現地業者の商魂には、正直、驚かざるを得ない。昔、日本人は、中国人を揶揄して、「日本人は、如何に法律を遵守るかを考えるのに対して、中国人は、法律を如何にしたら、くぐり抜けられるかをもっぱら考える」と言われたが、、、、、、、、、、。今や、食に関しては、日本人は、随分と、変容したようである。BSEの全頭検査の問題も、国際問題に発展しそうだったが、今や、食の安心・安全の基準の問題は、もはや、一国の法律の範疇だけでは、解決が付きそうもないようである。その国独自の食文化やTPPとも絡み、難しい課題である。



「決定力」という魔物

2012年08月09日 | 社会戯評
「決定力」という魔物
以前、日本男子サッカーが、「決定力不足」だと謂われ続けた時期があったが、確かに、スポーツとは、真剣勝負のようなもので、肉を切らせて、その一瞬のチャンスに、相手の骨を断つという勝負強さがないと、勝ち残れない代物であるかも知れない。圧倒的なボール支配率を相手が持っていても、僅かなその瞬間を、相手のミスも含めて、チャンスに替えて、決めることは、まるで、戦国時代の一瞬の戦さの興亡が、見事な逆転勝利に、変質するかのようである。(スポーツには、内通や裏切りはないが、、、、、)幾ら練習しても、そんな力は、養われるモノではないであろう。長い時間を掛けて、経験と国際的な場数と敗戦を何度も経験しなければ、「決定力」という魔物は、醸成されたり、生まれてはこないし、身につかないであろう。「紙一重」のところで、チャンスがピンチになり、逆に、ピンチが、勝利への偉大なチャンスになることもあろう。確かに、戦国乱世の時代のように、命が奪われることはないにせよ、これが、一命を賭してやる瞬間に、遭遇したらどうなるのであろうか?スポーツは、その意味で、ある種、現代の戦さの変形でもあろうか?教育も、スポーツを通じて、こうした「生きる上での糧」を、どこかで、学ぶ場があってもよいのではないだろうか?リハビリ中で、テレビ観戦していると、そんなことを感じる。耐えて耐えて、これでもか、これでもかと、まるで、「おしん」のように、(実際、日本人だけでなく、どの国の弱者も好きであるが、、、、)外人レスラーのヒール役に、やられにやられながら、最後に、起死回生の伝家の宝刀である空手チョップ一発で、逆転勝利する方が、日本人という民族の気質には、合っているのではないだろうかとすら、思えてならない。少しは、「進化」しているのであろうか?そんなことを思ってしまう。



外国人コーチの歓喜に垣間見えるもの

2012年08月08日 | 社会戯評

リハビリ療養中であるから、オリンピックのテレビ観戦が、自然と多くなる。マイナーな競技の試合も、思いがけず見ることになる。アーチェリーやフェンシング等の試合などは、これまで、そんなに興味を持って見たことがなかった。ハイビジョンの超スローモーションでの卓球の打ち合い等は、確かに、テーブル・テニスと言われれば、成る程と、改めて納得できる。日本は、明治期の近代化の過程で、海外からの技術をお雇い外国人技術者や、派遣日本人留学生を活用して、その技術を学び、独自に、自分のモノとしてきた歴史がある。フェンシングの団体準決勝で、外国人コーチが、JAPANの文字を背中につけて、壇上で、喜ぶ様は、何とも、日本人選手の歓喜の渦よりも、私は、とても、興味深く感じられた。そもそも、日本の剣道や柔道を、外国に、広めて、コーチングするのとは真逆のことをしているのであるから、それは、ただ単に、フェンシングが好きだからだけでは済まされないであろう。一つのスポーツ競技の歴史の中に、特筆されてもよいくらいであろう。逆に、日本人は、日本人のコーチや監督が、外国に雇われて、敵に塩を送るような行為を、すぐさまに、非難めかしく、云々する性癖と狭量さがある。シンクロも、ソフトボールも、そういう傾向と論調が目立つ。今や、スポーツも国際化しているのであるから、どんどん、日本人コーチも、お雇い外国人コーチ同様に、その国のスポーツ新興の歴史に、名を刻むような意欲と誇りを持って、やってもよいのではないだろうか。そんな一シーンを、垣間見られるのも、面白い物である。明治期に、極東の果てまでやってきた外国人技術顧問団の想いと重ね合わせられて、興味深いものである。



福原愛の中国人記者とのやり取りに考える

2012年08月07日 | 社会戯評
福原愛の中国人記者とのやり取りに考える
個人的には、余り、子供時代から、天才少女と呼ばれたこの卓球選手は、好きではなかった。しかし、たまたま、新聞の小さな記事を目にしたときに、子供から今や代表的な女子アスリートに成長した選手は、もう、国際的にも人間的にも、もっと、評価してあげても良さそうだと思った。異国に単身武者修行に行き、留学したり、技術を学ぶことは、今や、国際アスリートを目指す人達には、必須と行っても過言ではない。とりわけ、その国の言語、文化、しきたりを総合的に学んだ上に、語学が上達して、自分の意見が、表明できることは、重要である。逆説的に謂えば、マラソン留学でも、相撲取りでも、柔道でも、サッカーでも、今や双方向が当たり前である。食事になれ、言葉に慣れ、環境に慣れ、人付き合いになれて、初めて、日本人としてもアイデンティティーを有する個の意見表明が出来るのだと思う。まして、中国のような国は、卓球については、自負心が有り、かといって、国際的に、どういう眼で見られているのかと言うことも、同時に、一寸、気を病んでいる国は、福原愛のような中国人にも、アイドル的な存在として好かれる、一寸東北、遼寧省訛りの女の子には、少々手を焼くものである。野球選手の記者会見での「My Name is …….., please call me ……. 」等という馬鹿馬鹿しい自己紹介ではなくて、サッカー選手のように、堂々と、何カ国語をも交えて、会見表明し、独自の視点からの「個の意見表明」、情報発信を期待するところである。個人に委ねられるのでなくて、組織的にも、バックアップ体制が望まれる。いつまでたっても、寿司の歴史的な説明が出来ない帰国子女あがりの女子アナや、訳の分からないハーフのレポーターのインタビューは、もう、止めにして貰いたいものである。卓球に敗れても、福原愛は、もっと大きな価値ある一勝を挙げたと思われるが、、、、、如何だろうか?メダルのご褒美を、中国語で、発信してもらいたいものである。



無事退院の日を迎える(18日間の入院)

2012年08月06日 | 社会戯評
無事退院の日を迎える(18日間の入院)
お陰様で、さしたる傷の痛みも、リハビリでの辛い思いもすることなく、約18日間の入院生活を無事終えて、退院、帰宅することが出来た。これもひとえに、病院の医療スタッフ、家族の支援の賜物であると、多いに感謝したい。車から見る風景も心なしか、違った感慨を受ける。自宅の木々も、以前より、ずっと、色を濃くしてサン・シェードの布が、強い夏の太陽の陽を遮って眩しく透き通る。未だぎこちない足取りではあるが、毎日練習のつもりで、階段の上り下りも、手すりにつかまりながらも、トライしなければいけない。布団は、結局、病院の勧めをあって、ベッドを使用することにした。この法が腰への負担がないらしい。我が老犬は、ボスを自覚したのか、ぺろぺろと手を飽きもせずに、ずっと、舐め続けている。久しぶりのフランスパンのオープン・サンドが、実にうまい、もっとも、1cm巾のモノを2枚程度しか、食さなかったが、、、、、、。もう、そんなモノでよいだろう。何せ、食べる量を減らす必要があるのであるから、、、、、、。これから、1ヶ月後の検診まで、毎日の生活自身が、リハビリの連続である。当分、車の運転は、禁止で、行動の自由が極端に、制限される。子供達や山の神が、個人運転手代わりになるので、機嫌を損ねないようにしなければならない。人生の一面をこの入院期間で、この歳で、改めて、見ることが出来て、幸運であった。



病床から見る外の風景

2012年08月05日 | 社会戯評
病床から見る外の風景
2週間ほど、毎朝毎晩、見慣れた外の風景も、あと一日で、おさらばである。2重ガラスの窓を通じて、どうやら、蝉の声らしきモノが、かすかに聞こえてくる。真っ青な空も今日は、どんより、曇っている。カラスが、時々、その視界を横切る。多分外は、暑いのであろう。室内では暑さがピンと実感されない。今週は、友人達が、お見舞いに来てくれた。懐かしい顔をみて、四方山話をするのも、気分転換になってよい。何か、社会と少し繋がっているような気がしてならない。記念に、外の風景を携帯のカメラで、1枚撮ることにした。お見舞いに戴いたお菓子は、食べられないので、山の神に、一時保管をお願いしたが、どうなることであろうか?果たして、私の口には、いつ頃、入るのであろうかと、既に下世話な妄想が、頭をよぎる。杖なしでの階段の上り下りが最後のリハビリで実施された。若干未だ不安定であるが、手すりにつかまれば、問題はなさそうである。それにしても、筋肉が、これ程までに、萎縮しているとは、思いも掛けなかった。サッカー選手が、縦横無尽に、グランドを走る様を見ていて、羨ましいと思った。自分も、歩くだけではなくて、いつの日にか、走れるようになるだろうか、、、、、、、。
いよいよ、期待と不安のなかで、社会復帰、退院の日を迎えることになる。



退院を前に思う

2012年08月04日 | 社会戯評
退院を前に思う
比較的に順調な推移で、入院後2週間余りで、退院を迎えようとしている。何気ない動作、座ったり立ったり、歩いたり、寝返りを打ったり、歯を磨いたり、どれ一つをとっても、大切な日常生活の一つである。どれ一つ欠けても、不自由である。難儀である。食べること、飲むこと、そして、排泄すること、これも又、大変大事なことである。手足指先の爪切りも、大事であることを、レクチャーで、再認識する。レクチャー後に、目標管理を、大きな字で、書き出すという課題が提示された。心して、書き出さなければならない。

① 大皿盛りではなく、小鉢で、食べる量を減らす。1食500Kcalまでに、減塩で、、、、、。
② 間食は、一日せんべい1枚、カフェオーレ1杯に、果物は、3分の1づつ、3回に分けて、
③ 食餌療法と食後の運動療法の実施で、具体的な目標値を設定して、体重を減らすこと。

既に、手術準備期間と合わせると、約7キロ以上痩せたことになる。
支えてくれた病院スタッフに、家族に感謝・感謝の精神である。それにしても、腰という漢字は、身体の要とは、よく言ったものである。



糖尿病のフット・ケアーの大切さ

2012年08月03日 | 社会戯評
糖尿病のフット・ケアーの大切さ
足や手の壊疽により、終いには、命までも失う事例を写真で見ると、フット・ケアー、足の洗い方にも力が入る、もっと、昔に教えても貰いたかったものである。爪の切り方、削り方、ひび割れ、傷の見方、洗い方、なかなか、奥が深い。油断から、神経症や、網膜神経所、腎臓障害、心筋梗塞、合併症を発症して、足や手を切断されたのではたまらない、定期的な数値管理が、やはり、重要である、水虫や、足のタコなども、ゆめゆめ、油断してはならない。これを機に、靴も、新しくフィットするものに替えることにするか。とても、勉強になった。食事療法と食後運動療法とを組み合わせて、対策を立てなければいけない。生活習慣病の根絶である。根幹の体重測定で、約7キロ痩せたことになるが、それでも、利用には、未だ、何キロか足りない。リハビリは、いよいよ、階段の上り下りを、杖を使用して行う訓練である。念の為、今日は、両足を揃えて、一歩づつの作業で慎重に、、、、、、。大分違和感はなくなってきた。今後は、交互に踏み出す訓練である。
一応、8月5日(日)の午前中退院の運びとなった。後2日ばかりのリハビリである。歩行器から、杖の歩行へ、完全に移行となった。



術後9日目(リハビリ7日目): 退院の日が見えてみた。

2012年08月02日 | 社会戯評
術後9日目(リハビリ7日目): 退院の日が見えてみた。
整形外科の観点からは、もう、リハビリ最終段階で、後は、退院の日が、遅くとも月曜日、早ければ、土曜日か、日曜日ということになった。いやはや、今日は、ゆるめのエアロバイクを10分間こいでみた。特に違和感はない。シャワーも浴びられるようになったし、今後は、会談の登り下りの練習か、、、、、、、。残すところは、後3日程度だろうか?


=糖尿病教育入院講習を受ける
既に、整形外科の方よりも、むしろ、糖尿病の治療と教育に、軸足が移ってきて、退院も、最短、今週の土曜日でも可能であると、打診された。今日から3日間の予定で、医師や看護師、管理栄養士による合併症の危険性を重視した講義があるというので、希望して受講してみた。糖尿病とは何か、食事療法、フットケアー、検査方法、日常生活の留意点、薬の種類と特徴、そして、価格1時間のビデオ鑑賞と、各1時間程度の講義が、12教科組まれている。なかなか実践的で、役に立ちようである。明日は、山の神にも同席して貰って、食事の講習である。どうみても、これまでの食生活は、食べる量自体が、多すぎるようであった。大皿の要理は、駄目で、やはり、小鉢に、事前に、分割されいるもので亡ければ、駄目なようである。果物もヨーグルトも、ミルクも摂取し過ぎなようである。この講習は、患者や家族の意識改革にとても、役に立つ内容である。シメジと呼ばれる、足壊疽や網膜症や腎臓機能の低下、更には、脳梗塞、虚血症や心筋梗塞、閉塞性動脈硬化に、ならないように、痛みがなく、おともなく忍び寄る糖尿病との慢性疾患合併症に、気をつけなればならない。