小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

凍霜害に加えて、今度は、空梅雨被害か?:

2013年06月15日 | 社会戯評
凍霜害に加えて、今度は、空梅雨被害か?:
花が終わり、次第に、実がなり始める時期になって、初めて、具体的な凍霜害による被害額予想が、約二倍に拡大され、約35億円にも達する水準にまで、修正されたようである。これでは、あんずも、桃も、梨や林檎、ブドウ、すいか、等どうなってしまうのであろうか?市田柿も、その被害の中に、含まれているそうである。そうこうするうちに、今度は、追い打ちをかけるかの如く、空梅雨に伴う、降雨量の減少、溜め池の渇水問題が、浮上してきたが、、、、、、。いやはや、溜め池やら、水利施設が、今日、こんなに、発達しても、雨が降らないと、、、、、結局は、農業は、天気頼みなのであろうか?果樹栽培、稲作、畑作と、困ったものである。農業再生戦略も、いきなり、出鼻をくじかれてしまったものである。こんな調子で、夏が、冷夏にでもあろうものなら、もう、踏んだり蹴ったりな状態になろう。一旦しまい込んだ長袖を、急遽引き出しから、再び出して、着込んだ。お日様が出てこないと、少々、涼しく感じる。そんなこんなしているうちに、今度は、一転して、台風の影響からか、刺激された梅雨前線による大雨の注意が必要であるとか、、、、なかなか、中庸という訳にはゆかないものである。もっとも、期待していた分、落胆も大きかった。沖縄では、梅雨が、明けたとか、本当なのであろうか?雨が降りそうで、降らない曇り空を眺めて、ため息が出るのは、お百姓さんだけではない。



想い出と共に、生きる:

2013年06月14日 | 動物・ペット
想い出と共に、生きる:
東京の太陽光発電の工事の最終検査に立ち会わなければいけないので、女房殿は、バスで、帰って行ったが、一人、家に戻ると、寂ばく感に襲われる。急に広くなってしまった玄関は、随分と違和感がある。昔は、仕事で、遅く帰宅して、門扉をカチャンとあけると、ハウスから、同時に、ジャリジャリと鎖の音を響かせて、やや、迷惑そうな顔で、ノソッと、顔を出してきて、ブルッと身震いしてから、頭を撫でると、お返しに、ペロペロとその手を舐め返すのが、日課であった。その後、膿皮症を3年前に患ってから、徐々に、免疫力が落ち始め、屋外ではなくて、室内で、一緒に暮らすことにした。一緒に暮らした18年もの年月に刻まれた愉しい想い出と共に、一緒に、生きていきたいものである。今日は、もう、只今と戻って来ても、誰もいない玄関が、こんなに広かったのかと不思議に感じられた。子供達は、未だ、仕事で、気持ちが紛れるかも知れないが、皆、家族、一人になると、まだ、喪失感と寂ばく感が、どうしても拭えない。女房殿は、昨晩、シャッターを降ろすときにも、埋葬した場所が、見えるものだから、「おやすみなさい!」と一言言って、シャッターを閉めた。愛犬でも、こんな感じだから、これが、不慮の突然死や不条理な予期せぬ事故死だったら、どんな気持ちなのであろうかと、想像してしまう。介護やある程度の老衰のその先に見えるものは、予想がつくものであるものの、それを差し引いても、何やら、胸の辺りが、重苦しく感じられるのは、どうしたものであろうか?緩やかな時の流れだけが、想い出と共に、涙が、その喪失感を癒やしてくれるのかも知れない。そして、家族の記憶の中で、想い出と共に、一緒に、生き続けるのかも知れない。もう少しだけ、気持ちの整理をする時間を下さい。



小諸の里山に埋葬する:

2013年06月13日 | 動物・ペット
小諸の里山に埋葬する:
子供の頃、荘内の公園で、子供達と一緒に、自由に追っかけごっこをしたり、お菓子をベンチに腰掛けて一緒に、食べたり、里山の森の中をリードをつけずに自由に、木の棒をくわえたまま、帰ってこなくなったり、藪の中に突進して、ハァハァと息を切らして、突然、あらぬ方角から出てきて、又、走ってきて、足許に、ベタッと地面に這いつくばって、長い舌をだらりと出して、もう走れないとばかりに、ゴロリと寝転がったりもしたものである。冬には、スキー場で、私が、雪に脚をとられて、ブーツが抜けなくなると、心配して、クンクンと駈け寄り足許の雪を掘り出そうとしたり、直江津の海で、初めて体験する打ち寄せる波の音にビックリして、尻込みしたり、喉が渇いたといっては、湖の水をペロペロ舐めたり、随分、色々な所へ、家族共々、車で、一緒に行ったものである。車に乗ると、自分の座席に、といっても、段ボール製の空き箱であるが、チョコンと飛び乗り、きちんとお座りして、碓井峠のS字カーブも、しっかりと、脚を踏ん張って、左右のバランスを保っていたものでした。外で、飼っていた為か、お向かいさんの勝手口の門番も自分の仕事だとばかりに、宅急便が来る度に、吠えて知らせていたものでした。そのお陰で、ご褒美まで貰ったことがありました。自宅での11日のお通夜は、子供達が帰宅してから、皆んなで、涙を流しながら、お別れでした。後で、女房殿から聞いた話ですが、長女は、「家族が段々と減ってゆき、増やせなくてご免なさい。」と涙ながらに、ポツリと呟いたそうです。長男は、雌犬だったのに、まるで、弟を亡くしたかのようだと、涙を流しながら、身体をさすってやりながら、頬ずりしていました。エメラルド・グリーンの瞳で、しっかりと、いつまでもアイ・コンタクトをして、視線を決してそらすことがなかった瞳は、今や、閉じられて、眠りから覚めようとはしません。翌12日朝、女房殿と一緒に、小諸の里山の玄関脇に佇立している松の樹の横で、且つ、八重桜の樹の近くに、穴を一緒に掘って、消石灰の粉を散布して、安置しましたが、未だ、それ程、死後硬直しておらず、まるで、暖かい毛皮の剥製のように、寝ているようでした。抱きかかえて穴に、入れるときには、涙が溢れ出てきて、作業は、二人で、一時中止と相成りました。暫くして、気を取り直して、再び、東京から持ってきた自宅の土をかけて、埋め戻し、最後に、腐葉土を盛り土として、掻き集めました。そして、長男が、子供の時に作った素焼き製のハウスの作品が、大事にとってあったので、これを目印に、上に、置いて、無事、埋葬が終了しました。後は、東京で、鑑札の返却と狂犬病予防接種記録証明書をもって、死亡届けを提出する段取りだけです。何とも、寂しい限りです。玄関に、置かれていた箱もなくなり、急に広々とした玄関が、やたら、もの悲しく感じられました。親の最期も、海外出張やらで、看取れなかったのに、皮肉にも、我が愛犬から、介護を勉強させて貰い、更に、息を引き取る最期の瞬間に、立ち会わせて貰った機会を得られたことは、何と感謝したら良いのであろうか?最期まで、一生懸命に、生きようとしていった姿を、私は、決して、一生忘れることはないであろう。埋葬して、こんな事を、まさか、我が愛犬から教えて貰うとは、よもや思わなかったものです。もう、再び、動物と一緒に、暮らすことは、恐らく、ないであろう。今は、そんな感慨です。



それは、ふいに、突然やってきた!:

2013年06月12日 | 動物・ペット
それは、ふいに、突然やってきた!:
もう、3日間も、全く食事を食べなくなり、やっと、水だけを飲むのが精一杯である。玄関脇のリビングのソファーに敷布を敷いて、看病することにした。子供達からは、明日の朝、エナージー・ドリンクとスポイトと一寸甘い水を買ってあげてきて下さいねとメールが来ていた。又、犬の老衰の対処の仕方のサイトの案内も来ていたので、参考に、読んでおいた。我が老犬は、昼間は大人しかったのに、夜になると、伏せの体勢をとろうとして、何とか、起き上がろうとするのか、力を振り絞ってワンワン啼いて、起こしてくれとせがむ。夜の10時、日付の変わる零時過ぎ、午前2時頃、明け方の4時と、そして、こちらが朦朧とする中で、朝、7時には、かすれた声で、オムツを取り替えてくれと、水をくれと催促するので、脇の下を抱え上げて、綺麗な新しいオムツに着替えさせて、お水も飲ませた。すると、今度は、疲れ果てたのか、崩れ落ちるように、頭を垂れて、眠り始めた。この分なら、スヤスヤと、寝るであろうと、朝の雑事を終えて、こちらは、自分の食事とあれやこれやと、、、、、、していた。丁度、10時20分過ぎのことであった。何やら、爪で、段ボールの箱を小刻みに、ガリガリとひっかく音がするので、これは、変だなと思って、直ちに、近寄ると、右の前肢が、ぼうのように突っ張って、ガタガタ、経連を起こしているではないか?声を掛けながら、曲げたり、硬直した筋肉をさすったりしてあげるが、一向に、納まらない。ネットで、こういう症状が出ることを事前に、分かっていたものの、実際に、それが、不意にやってくると、いよいよ、くるべきべきものが来るのかと身構えてしまう。急遽、東京に残って、太陽光パネル工事の監督中の女房殿に電話したら、もう、電話口で、涙声になっていた。1時間半以上、経連が続いており、さすってあげても、ほとんど、反応はなく、次第に、鼻呼吸が苦しいのか、口での大きな呼吸になり、やせ細った脇腹の骨が大きく、波打つようになっていった。やがて、今度は、それを過ぎると小さく、徐々に力が無くなり、終いに、4肢を伸びをするようにして、刮目して、呼吸を止めてしまった。12時07分のことであった。ずっと、身体を撫でていたせいだろうか、薄い細い毛が、腰のあたりに、気が付けば、固まっていた。満18歳と4ヶ月(推定である、というのも、1995年5月に城南島の動物愛護センターから、3ヶ月の子犬で、もらい受けてきた犬であるから、、、、)の命の最期であった。子犬の頃から、大好きな散歩やリードも付けずに自由に走り回った小諸の里山に、死んだら、埋葬して上げると家族で決めていたので、まずは、亡骸を、東京の自宅へ、運んで、家族と対面してから、とりわけ、社会人となった子供達には、、、、、それから、小諸の里山に、玄関脇の太くなった松の樹と八重桜の樹の間に、埋葬することにして、未だ、ぬくもりが残る身体を撫でて、目を閉じさせ、涎を綺麗に拭いて上げて、アイスノンと氷で、冷却して、段ボールのハウスを新聞紙とタオルで、包んで一路、東京へ、一緒に、車で帰宅することにした。よく生きたね!よく頑張ったね!お疲れ様でした。ありがとう!(涙、涙、涙)



除雪というライフ・ライン・インフラを思う:

2013年06月11日 | 社会戯評
除雪というライフ・ライン・インフラを思う:
東京などでは、大した積雪でもないのに、高速道路が閉鎖されたり、坂道で、車が立ち往生したり、都市機能が、完全に麻痺したりする被害が出るが、豪雪地帯では、除雪自体が、もっと、直接、命に関わってくる重大なライフ・ラインの問題であろう。雪寒道路の除雪に関して、その交通量の変化に伴い、国の補助金の見直しを行うそうである。確かに、道路というものは、只単に、建設さえすれば良いハードものではなく、保守・点検・整備・修繕を怠ってはならないのは言うまでもないが、冬場の除雪等は、必要不可欠であろう。こんな里山でも、雪が降れば、除雪しない限り、家から出られなくなり、電気が切れたり、灯油を買いに行けなければ、年寄り・子供の生命にも関わってくるものである。おまけに、除雪を請け負う建設会社などが、地方経済の疲弊と共に、撤退・辞退でもするようになれば、事は一大事である。交通インフラの整備は、同時に、過疎化対策にも通じるところがあろう。除雪を通して、見えてくる「見えないインフラの整備」というものがあると云うことに気付かされる。渇水になればなったで、水利の問題があぶり出され、大雪になれば、限界集落の問題、除雪の問題、ガソリンスタンドの廃業の問題等が、あぶり出されと、一見、インフラが、整備されているようでいて、まだまだ、課題は、色々身近に山積していることを思い知らされる。もっとも、雪が降らないと、今度は、山の雪解け水が、減少することにもなり、困ったことである。程々に、雪も積もり、程々に、雨も降ってもらいたいものであるが、、、、、、理想的には。それにしても、除雪が必要のない屋根とか、道路が、どうして今日の科学を持ってしても、人智を尽くしても、出来ないものなのであろうか?



「生生(なまなま)」という生中継情報発信が増えていると:

2013年06月10日 | 社会戯評
「生生(なまなま)」という生中継情報発信が増えていると:
NHK「ドキュメント72時間」によれば、自分のPCをミニ中継端末にしてネットで、生中継をする人が、増加しているそうである。様々な人々が様々な情報を発信しているそうで、たわいのない夕食の風景や唄や踊り、コスプレや女装すらもあって、しかも、数千人の固定ファンを持つ人や一日10万件までにも達するそうである。反原発デモの最中に、その動静をアップ・ロードしたり、ツィッターで、呟いたりするのは、これに較べると、今や、カワイイ情報発信手段とまで化してしまっているかのようである。中には、話しかけられるのをひたすら待っている自分自身の場面を生中継している人までいる始末である。一体、「何を求めて」、生中継したいのであろうか?一体感なのか?それとも、自分の存在を自己顕示する為なのか?「自分の場所」とは、何なのか?人と繋がる?昔は、それこそ、安田講堂や浅間山荘立てこもりの実況中継など、所謂、「官製生中継」であったのに対して、今や、自分で、本当に、自立して、生中継しているモノなのだろうか?何処が、違っているのか?「生中継」をするという本当の「真意」とは、一体、何なのであろうか?それが、情報の「発信」ということなのか?発信という意味は、どういうことなのであろうか?しかも、画面に出てくる「同時レスポンス」の書き込みを観ながら、又、即時、その場で発信するのだそうである。しかも、それを又、画面に投影しながら、、、、、。「双方向」とは、そんな程度のことなのであろうか?そこで、何か、「新しい化学反応」が生ずるのであろうか?こういう延長線上では、きっと、無差別殺人やテロや自殺自演すらも、近未来で、生中継されてしまうのではないだろうか?他愛のないと言ってしまえばそれまでであるが、ナマであるという「同時性」は、何を条件になり立つのであろうか?「ナマの同時性であるべきもの」とは、一体、何なのであろうか?「発信する側の人」の真意が、伝わってこないが、それ以上に、それを期待する側の人、「受ける側の人」は、「何を期待する」のであろうか?何を期待して、レスポンスするのであろうか?実に、得体の知れない感じがしてならない。考えさせられてしまうが、只今、増殖中であるとは、、、、、そして、これが事実であるとしたら、どのように、この事態を考えたらよいのであろうか?考えさせられてしまう。既存メディアは、どう考えているのであろうか?



我が老犬は、この夏を越せるだろうか?どんどん、弱ってゆく:

2013年06月09日 | 動物・ペット
我が老犬は、この夏を越せるだろうか?どんどん、弱ってゆく:
「命の灯火」が、あるとしたら、きっと、我が老犬のそれは、次第に、弱々しく、まるで、手の平の上に載せた砂が、その指の間から、少しづつ、サラサラと落ちて行くように思われてならない。それは、丁度、砂時計の砂が、なくなるように、「命の灯火」が、尽きてしまうかのようである。もう右の後ろ脚は、自分の意思で、前に運ぶことが出来ず、おしりをぺったんことばかりに、地面につけてしまい、動こうともしなくなってしまう。朝食べたものを、最近では、何度か、戻して吐き出したり、「生きるエネルギー」が、枯渇してきたのか、寝るときにも、脚を投げ出して、首も横たえるようにして寝るようになってしまった。聞くところによれば、家で、放し飼いにされている犬は、死期を悟ると、何処か遠いところへ、一人で行ってしまい、自分の死ぬところを見せないそうである。我が老犬も、頭がよい犬だから、きっと、死期を悟り始めているのかも知れない。食事も少なくなってきたので、ウンチも、3分の1位になってしまった。お水を飲むのも、やっと、立って歩くのが、精一杯で、食事も、やっと、立ってするのが、せいぜいであるようになってしまった。鼻筋から、頬を撫でて上げても、ペロペロ舐め返すこともなくなってしまった。ひたすら、眠るかの如く、スヤスヤと安らかな顔で、寝むり続けている。父方の祖母が、亡くなる前に、まるで、花が枯れるように、徐々に、「生きるエネルギー」が消え失せて、眠るように、老衰で、逝ってしまったが、我が老犬も、この夏を越せるだろうか?一ヶ月前とは、随分と違って、弱々しくなってきた。まるで、「死期を悟った犬」のようである。そして、我が老犬に、「最期を如何にして迎えるか?」を教えて貰っているようである。「きっと、疲れたんだろうね。ゆっくり、おやすみなさい。でも、明日の朝は、起きるんだよ!」と、、、、、、。



スロープに階段をDIYしてみる:

2013年06月08日 | DIY
スロープに階段をDIYしてみる:
秋になると紅葉後のモミジの落ち葉で、スロープは、綺麗になるのであるが、落ち葉が、堆積すると滑りやすくなり、歩行がままならないリハビリの身には、我が老犬ならずとも、杖でもつかないと、危なく、滑って骨でも折りかねない。そこで、ベランダの板を替えたときの旧い廃材が、残っていたので、腐っていない板を選んで、適当な長さに切って、木の腐食加工を施した短い杭をHCから買ってきて、打ち付けてみることにした。電動丸鋸は、箱のみ残っていて、どうやら、東京へ持って帰ってしまったらしいので、電動ジグソーで、挑戦することにしてみた。存外、簡単に、切れるものであるものの、問題は、杭を地面に打ち付けるのに、スコップの裏側で、叩くのはよいが、粘土質のこの土地の土は、とても硬くて、なかなか、地中に打ち込めない。終いに、腰が疲れてきて、雨でも降った後に、柔らかくなってから、再び、叩くことにした。流石に、疲れてしまった。昔、赤松の丸太を、階段替わりに、据え置いたが、いつの間にか、枯れ葉と落ち葉で、埋もれ果てて、土の一部に埋まってしまっていた。はみ出したすずらんの花は、移植ごてで、階段から、掘り返して、端に、纏めて、寄せ植えすることにした。もう一箇所の階段DIYは、少し、時間をおいてから、挑戦してみることにするとしようかな?DIYも結構、腰に来るものである。用心用心!無理せずに、、、、、ということで、。



竹のキャンドルをDIYしてみる:(完成・点灯編)

2013年06月07日 | 伝統工芸・展示会
竹のキャンドルをDIYしてみる:(完成・点灯編)
一応、準備が終了したので、早速、試験的に、ろうそく、と言っても、高さ2センチ程度の円柱型のミニ・キャンドルであるが、点火してみて、その光と陰のコントラスト、竹の色合いと光の赤いというか、その穴から、こぼれ出てくる、やや、橙色の光の反射を、チェックすることにした。すると、底部の所を持ち上げてみると、光が、透けて見え、期待していた以上に、結構、面白そうなので、底に近い場所に、ドリルで穴をあけたらどんな感じになるだろうかと思い、実際に、何箇所か、最初は、正面に、そして、徐々に、裏にも、側面にもと、穴をあけてみた。さてさて、どんな具合になったのか、楽しみである。部屋の明かりを消して、実験するとのと、戸外の暗闇の中では、又、雰囲気が違うかもしれないが、まずは、室内の明かりを消して、実験してみることにした。写真は、どうも、うまく、雰囲気が出ていないが、実際には、ずっと、幻想的である。これを玄関先やアプローチなどに、置いてみたら、足許は、結構、明るくなり、普段の趣とは、少々、違ったものになるかも知れない。試してみるとしようか!



竹のキャンドルをDIYしてみる:(準備編)

2013年06月06日 | DIY
竹のキャンドルをDIYしてみる:(準備編)
茶房、読書の森の「どうらくオルガン」の端材の太い孟宗竹が、残滓として、残っていたので、これを、珈琲を飲みながら、ついでに、もらい受けてきた。それにしても、立派な竹で、直径は有に、10センチはあろうか、竹の厚みが、1センチ余りで、斜めに糸鋸で、カットするのには、存外、時間が掛かるものである。斜めに、何とか、押したり、引いたり、なかなかの作業である。若干、甘く観ていたかな?高さ20センチ程度に斜めカットして、表面に、ドリルで、穴を開けて、キャンドルを中に入れて、竹キャンドルの完成を目指す段取りである。竹の表面には、ドリルで穴をあけられるように、木の葉や、蜻蛉、桜の花のモチーフ・デザインを、鉛筆で、取りあえず、デッサンしてみた。この調子であれば、全部で、最低6個は、出来上がるかもしれない。(結局、途中で挫折して、5個になってしまったが、、、、、)実際、穴をあけて、キャンドルの灯を入れてみないと、どんな具合に、映しだされるかは、分からないが、、、、、、。結構、自己満足なDIY作品が、期待できそうである。玄関アプローチや、居間などに、飾ってみるのも面白いのではないだろうかと、今から、ワクワクしているが、果たして、出来映えは、期待していたようになるのであろうか?お楽しみである。何せ、DIYはいつも、アバウトであるから、、、、、、仕事と違って(?)もっとも、仕事が杜撰だと、DIYにも、反映されるらしいが、どうしたものであろうか!夜、電気を消して、光の具合をチェックしてみるか?そこで、微調整することにすることにしようと、、、、、、。



世田谷区長による再生自然エネルギー推進への提言と目論見:

2013年06月05日 | 社会戯評
世田谷区長による再生自然エネルギー推進への提言と目論見:
保坂展人、世田谷市長による「都市の市民が共同で出資して小水力発電所をつくり、生みだした電気をPPS(特定規模電気事業者)に売って資金を循環させるような仕組みができないだろうか」という提言は、原発の再稼働推進や、ソフト・バンクの北海道でのメガソーラー発電の中止や先送り、或いは、発・送電分離の遅々として進まない動きなどの中で、地方行政首長として、多いに、注目に値するモノではなかろうか?本来の行政の在り方とは、こうした、住民の意思を如何にして、具体的な政策として実現可能にするかということが、問われるべきものであって、地方都市との連携、協定の推進は、今後の動向に、多いに、注視して宜しいのではないかと思われる。長野県などは、小水力発電の潜在的な可能性を多いに秘めていると謂われながら、なかなか、その動きが、遅々として、思った程には、具体化していない。むしろ、他県の後塵を拝するかの如き状況である。こうした世田谷区の提言に対しても、各長野県の首長は、積極的に、取り組んでもらいたいものである。情報発信を毎日している保坂展人、世田谷市長のFBやツィッターから、目を離せない。
太陽のまちから:
http://www.asahi.com/and_w/life/TKY201306040065.html


祝、光回線接続WiFi開通!:

2013年06月04日 | 社会戯評
祝、光回線接続WiFi開通!:
小諸の里山では、何でも、基地局から7キロ以上も離れているため、ADSLでは、とにかく、速度が遅く、おまけに、最近のホーム・ページでは、画像やビデオが、やたら貼り付けられていて、なかなか、開くことが出来ないし、最悪では、サイト自身が、待てど暮らせど、全く開けない事が多かった。東京のような大都会では、同じADSLでも、そのスピードの差が歴然である。NTTの戦略的な方針、もっとも、事実上、日本のネット・サービスに対するインフラの戦略的な整備は、全く、出鱈目であるが、自分自身、いつも、これまで、その煮え湯を飲まされ通しであった。とりわけ、まだ、ファックスが主流の頃、ISDNの回線を、一つの回線で、電話とファックスを使用でき、しかも、速度が速まる夢のような回線であると、事実上、騙されて、工事費を負担して、払ったのに、その後、数年後には、ソフト・バンクが、格安ADSLの普及で、挑戦をしてきた。(何と、当時は、シャープのザウルスで、公衆電話から、ファックスしている友人が、自慢げに、「やはり、モバイルは、スピードが早くなくちゃぁネェ」と言っていたのを、懐かしく想い出す。)その結果、デジタル回線から、再び、アナログに、切り替える工事は、何と、「カスタマー・アンフレンドリー」にも、費用をサービスしてくれなかったのである。おまけに、今度は、光ファイバー網を、新たに、設備投資して、スピードで勝負する戦略であるとした。何が、「カスタマー・フレンドリー」なのか、何が、「顧客本位」なのか?電話での光回線勧誘の時に、何度も、このことをクレームしたところ、その後、全く、勧誘の電話が、来なくなった。この客は、一筋縄ではいかないと、リマークが付いたのではないだろうか?それにしても、日本のネット・インフラは、実に、チグハグである。先日、ベトナムの旧い友人が小諸へ来たが、流石のセブン・イレブンも、WiFiを謳っている割には、外人のスマホには、うまく、対応できていないようであった。サービスの良さの最終判断の基準は、要するに、安く、サクサク、繋がるのかどうかであり、セキューリティーが、しかも、きちんと担保されていることであろう。しかも、「無料」が、理想的前提であろう。一時、外国のホテルで、無線LANが、高くて、困ったことがあったが、それも、今や昔の話である。工事完了と同時に、無線LANを設定すると、これで、1階2階とも、サクサク、苦痛なく、ネット・サーフィンが可能になった。いやはや、やっと、これで、人様並みの水準に達したことになろうか?当分は、これで、一段落であろうか?ソフト・バンクのバリュー・プランのADSLのモデムの返却は、皮肉にも、着払いは、受け付けないそうで、こちらで、ご負担して下さいという大変慇懃無礼な物言いであった。それにしても、どこのプロバイダーも、2年割引きとかで、違約金を取られないようにしないと、まずいが、何とも先行き不透明なやり方である。国のネット・インフラ戦略は、どうなっているのであろうか?



ヘ、ヘ、ヘビ、蛇に、遭遇す!:

2013年06月03日 | 自然・植物・昆虫
ヘ、ヘ、ヘビ、蛇に、遭遇す!:
この間、東京の杉並の自宅で、玄関から、突然、女房殿のギャアーという大きな叫び声が聞こえたので、スワ、何事か?と、飛び出したところ、玄関の階段を体調30センチ程の蛇が、ニョロニョロと、目の前を横切っていったそうである。後日、何でも、外を通る人が、「こんな所に、蛇がいたのよ」と囁きながら、歩いていたそうである。確かに、住処となるであろう下水道やら、食用となる野鼠やらがいるのであれば、きっと、棲むのには問題ないのであろう。以前にも、庭から、縁の下の土台の風通しへ、ヌルッと消えてゆくのを女房殿は観たことがあった由。そんなことだから、小諸の里山にも、蛇はつきもので、大体5年くらい毎に一度、目にすることがあるものの、突然それが、やってくると、驚くものであることに変わりはない。階段を降りようとすると、何やら、しっぽのようなものが、階段の左側に有るではないか、ひょっとしてと、その先を眺めると、茶色い色のシマヘビだろうか?親指を少し小さくしたような頭に、少し可愛らしい冷徹な目を持ったへびが、駐車場横の松の木の根元をニョロニョロと、匍ってゆくでは無いか?携帯で撮影した後、デジカメを部屋に取りに帰った数分後には、全く、姿形がなかった。不思議である。何処へ消えたのであろうか?目の不自由な我が老犬が、うっかり、嚼まれたりしなくてよかった。これで、当分は、蛇とも、きっと、出会うこともないであろうか?それにしても、体長130センチくらいにまで、生長するのには、何年くらいかかるのであろうか?いやはや、毒蛇でなくてよかった。蜥蜴や蛙も、たくさん生息しているのであるから、食糧には、きっと、不自由はしないのであろう。出来れば、ひっそりと共生をお願いして、あまり、目立って出てきて貰いたくはないことを祈りつつ、、、、、又、いつの日にか、会う日までと。
携帯で、撮影したショットを載せておきましょう。気味悪がらないで下さいネ!まぁ、自然がそれだけ、豊だと思って下さい。



観ているだけの田植えに思う:

2013年06月02日 | 自然・植物・昆虫
観ているだけの田植えに思う:
何も出来ない、観ているだけの田植えというものも、何とも、切ないものである。今年も又、稲作とお米というものを、一年に一度、考え直す時期が来た。それにしても、食物というものは、確かに、水量に換算されて然るべきものであるのかも知れない。水利権や、地下水の問題、反当たりの収量・肥料・除草方法などというものは、今日的な意味からも、見直される必要があるのかも知れない。まだ、風は、少々冷たく、夜には、長袖、一寸、ストーブを焚かなければならない程であったが、こんなに、遅い時期でのストーブ使用は、記憶にない。これでは、温泉で暖まった身体も、たまったモノではない。少々、曇っていたために、流石に、暑くはなかったものの、蛙やタガメや、ヒルや水蜘蛛も、元気に、田んぼの中で、共生していた。米を作ると言うことは、食育ではないが、もっと、高尚な哲学的な、生きる、働くという意義や意味を、見つめ直すよい時を与えてくれるものではないだろうか?それにしても、見下ろすと、下の方に拡がる田んぼは、耕作放棄され、やりたい放題に雑草が生い茂り、無惨な有様で、その境界線も、今や、不明な状態である。農業の再生が叫ばれて久しいし、昨今では、農業の競争力の強化が、アベノミックスの中で、打ち出されているものの、現状では、そういった取り組みが、まだまだ、実感として湧いてこない状態であることは、間違いなさそうである。ヒョンなことから、八重原米の玄米を少々、戴いたが、これからの実りの秋が、たのしみである。又、再びの収穫が出来るようになれば、宜しいが、、、、、。たまたま、隣の下の田んぼで、機械で、田植えをしている人がいらしたが、危うく、土手に、登るときに、機械が、まるで、タンクが乗り上げるように、大きく、空中に、突き上げて、斜め仰向けに、転倒しそうになり、耕作機械の事故にも、十分、注意しなければいけないことを、改めて、感じた次第である。そう言えば、こちらの小さな田んぼの形は、機械が入りにくい、変型した形であることが、改めて、納得された次第である。




グローバル企業による租税回避を考える:

2013年06月01日 | 社会戯評
グローバル企業による租税回避を考える:
東京証券取引所は、システム・ダウンを教訓にしてから後に、その超高速処理システムの改善を図り、HFT(超高速取引)対策を施したかにみえたものの、どうやら、先日の株価の乱高下は、ヘッジ・ファンドによるこうしたコンピューター・アルゴリズムを利用したトレーディングに、まだまだ、対応できず、不十分であることが、白日の下に晒された。一方、グローバル企業による租税回避の動きは、単に、タックス・プロモーターと称する国際会計士や税理士などの存在もさることながら、個別一企業の問題ではなくして、今や、平等での競争や国際的な租税ルールというもの自体が、「一国主義」だけでは、到底、対抗でき得ないものにまで、なってしまったことを知らしめている。AIJ投資顧問詐欺やMRIインター投資年金詐取の問題やらでも、取り上げられたケイマン諸島を利用したタックス・ヘブンの活用など、或いは、オリンパスの巨額不良債権の処理を、国際的な租税回避を絡めた、こうした国境を超えた複雑な取引やマネー・ロンダリングを繰り返して、逃れることは、法の下の平等とも、国際的な一定のルールをないがしろにしているとしか、言いようがない。実際、現実的には、HFTもさることながら、同様に、国際機関による一定の情報交換とか、税制の国際的な仕組みが、多国間での協議で、JITSIC(合同国際タックス情報センター)のような対抗機関の設置や国際的な情報共有措置も含めた議論がなされない限り、何の武器も持たない無垢な人間だけが、ハンディキャップを負わされたままで、常に、一歩遅れた選択をせざるを得ないのでは、納得がゆかないし、平等ではないこともまた、現実であろう。結局、いつの時代でも、金持ちは、容易く、国境を超えてしまい、持たざるものは、そこから、出られずという構図なのであろうか?