小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

解かされた封印、米軍カメラマンが見たナガサキ:

2013年08月16日 | 社会戯評
解かされた封印、米軍カメラマンが見たナガサキ:
たまたま、フェース・ブックを見ていたらある人のシェアーの中に、気になるYou Tubeを発見したので、見てみた、48分程のものであるが、なかなか、興味深い内容である。
もう既に、戦後も、約70年の歳月が、過ぎ去ってしまった。戦争を直接・間接に体験した世代も、既に、鬼籍に入ったり、今や、入ろうとしている段階にさしかかって来つつある。流石の日本遺族会も、子供や孫の世代に、活動の参加枠を拡げないと組織自体が、成立しない段階になりつつある。亡くなった父の戦友会もとうの昔に、なくなってしまった。これは、何も日本に限ったことではなく、このフィルムの元米軍海兵隊カメラマンも、同じである。歳月は、勝者にも敗者にも均しく、待ったなしに、時間は無慈悲に過ぎ去ってしまう事実を迫りつつある。被爆地、ナガサキの記録を冷徹に撮影することを軍からの任務と課せられたこの人物は、その中に、次第に、グラウンド・ゼロの中にも、人間の生活が、現に存在していることに、気付かされ、やがて、軍の命令に反して、密かに、子供達や被災者に、カメラを向けるようになる。その中でも、死んでしまった弟を背負い、火葬場で、唇を食いしばりながら、哀しみに耐え、直立不動に、一点を見つめながら、その順番を待ち続ける一人の少年の姿に、感銘を受け、以後、何とか、探し出そうとしたが、結局、果たせず終いに終わってしまったと、原爆投下の正当性を信じて疑わなかった人間が、非人道的な被害を目の当たりにして、結局、自身も、原爆症の為に皮膚癌や骨の病に陥り、これを契機に、封印していた軍用トランクにしまい込んだ、家族にも、絶対に明けてはならないと命じていたフィルムを、公然と、米国内で公開することを決意するに至る。原爆が非人道的な兵器であることは、言を俟たないが、皮肉にも、このカメラマンは、ホワイトハウスで、戦後、原爆投下を命じたトルーマン大統領付きのカメラマンになり、その原爆投下の是非を質問したという。何とも、「歴史の皮肉」としか云いようがない。しかも、その彼の死が、何と、8月9日のナガサキ原爆投下の日であったとは、、、、、、何という巡り合わせだろうか?米国内世論の中にある原爆投下の正当性を信じてやまない人々からの批判と中傷にもかかわらず、(それにより、離婚もしてしまったのであるが)その遺志を継いで、活動に参加した息子は、やがて、来日して、ナガサキ原爆展示会で、写真を公開するに至る。戦後、米軍は、原爆に関する報道を規制したり、検閲を強化したものの、今や、非公開の戦後資料や密かに個人的に所有されている米軍資料などが、こうした形で、死を目に前にして、公開されて行く傾向は、徐々にでもあれ、増加して行くのではないだろうか?スノーデンによる情報漏洩ではないが、何処かで、機密情報は、何かのきっかけで、暴露されてしまう可能性は否定できない。それにしても、日本という国は、戦争を、或いは、災害ですら、記憶の中にとどめるための作業を怠っている国であることは、間違いなさそうである。死んでも、墓場までも、機密を待って行くと公言して憚らない政治家までいる以上、我々は、毎日、どのように、情報に接し、どのように、判断したらよいのであろうか?宣伝と教育は、原発でも原爆の正当性議論でも、どうやら、根は同じで、変わりはなさそうである。8/6, 8/9, 8/15と真夏の暑い時期に、必ず、毎年、我々は、考えさせられる。
少々、長いかも知れませんが、ご覧になる価値は充分あるかと思われます。この海兵隊カメラマン、並びに、その遺志を継いだご子息に敬意を表したいと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=wFvjKL-ObZQ


アニメーション・クリエーターのさわりをみる:

2013年08月15日 | 社会戯評
アニメーション・クリエーターのさわりをみる:
小諸の旅カフェで、何でも、小諸すみれ姫なるマスコット・キャラクターを、アニメーション化して、観光の一役に、立たせようと、クリエーターが、頑張っているという。成る程、二次元の紙面上での動きのないマスコット・キャラクターが、口パクではないが、言葉を発したり、跳んだり跳ねたりという動作をすることに、何故か、感激してしまう。むろん、その動作そのものよりも、コンピュータ-・ソフトを駆使して、日本語のみならず、英語や様々な外国語も、その言語特有の口の動きに合わせて、調整出来るとは、、、、、そちらの方に、正直言って、驚きを隠せない。アニメーションとは、確かに、原画を、パラパラ頁の原理で、色を塗ったり、一コマ一コマを、動作をスローモンのように、重ねて行く訳であるから、その手間暇、人件費と時間が、そのまま、コストの累積になるのであろう事は、容易に、想像がつくものである。それを差し引いても、なかなか、面白いものである。絵本の絵が、丁度、生命の息吹を与えられて、動き出すかのようで、しかも、これに、音声や背景の音楽が付加されるようになると、確かに、チャラクターが、或いは、人物が、一人歩きするわけである。相当なコストが必要になろう事は、理解出来るが、今、企画中の絵本が、完成したら、いつの日にか、短い時間のアニメーション・フィルム化に、挑戦してみたくなりました。まあ、自分では、流石に、このコンピューター・ソフトは、自由自在に、操ることは難しいかも知れませんが、原画の水彩画を活用して、出来ないことはなさそうです。そして、スマホなどのアプリとして、電車に乗っている時間にでも、ダウンロードして、読める(?)観れる電子書籍版でも、面白いかも知れません。それにしても、IT技術の進歩で、様々なクリエーター的な仕事が、可能になるものであるものなのですね。海外の貿易の仕事に携わっていたときには、想像も出来なかったようなことが、全く、簡単に、出来るようになるとは、驚き意外の何ものでもありません。オン・ディマンド出版ならぬ、オン・ディマンド・アニメなるものも、いずれ、出てくるかも知れませんね。いやはや、驚きました。製作現場を公開しているそうですから、興味のある人は、一度、ご覧になられたら、如何でしょうか?なかなか、面白いものであるが、これが、仕事となると、それはそれで、大変なことであることは間違いなさそうである。



冷蔵庫写真のツイッター投稿とその後の反撃に思う:

2013年08月14日 | 社会戯評
冷蔵庫写真のツイッター投稿とその後の反撃に思う:
それにしても、ブロンコ・ビリーというステーキ・ハウスも、とんだ災難である。当該、足立店を閉鎖するのみならず、むろん、アルバイトの店員は、首にしたのは、当然としても、更に、損害賠償や威力業務妨害を適用して、訴訟に訴えるようである。このアルバイト店員は、未成年であったのであろうか、それとも、成人していたのであろうか?未成年ならば、当然、親の責任は免れ得ず、数千万円とも、ヘタをすれば、フランチャイズ契約も含めれば、有に億単位を超える額での損害賠償金が、請求・訴訟されることになろう。そんな単純なことも、分からない愚か者がいるのであろうか?実際あった話だから、そうなのであろうが、、、、、。最近では、自らの犯罪的な行為を平気で、投稿したり、ラインなどで、生放送で、実況中継、アップしてみたりと、一体、何を考えているのか、悪ふざけか、ブラック・ジョークか、将亦、おちゃらけなのだろうか?皆目、その行為自体、理解に苦しむ。およそ、世間には、馬鹿なことをしでかす輩がいるものである等と謂っている段階ではもはやないのではなかろうか。流石に、昔、アメリカ・マクドナルドでの熱い珈琲で、火傷をしたとかで、被害者がその容器の不備を訴訟して、勝訴、多額の賠償金をもらったとき、そんなことがあるのかと、耳を疑ったことがあったが、今や、真面目に、日本でも、別の意味で、危機管理が、必要になりつつあるようである。恐れ入りました!タケシ流に、「どこにでも、馬鹿はいるもんだ!」等と揶揄している暇も企業側には、そんな余裕すらないのかも知れない。又ぞろ、だから、道徳教育が必要だなどと、声高に、真面目に、叫ばれても困ってしまうが、、、、、、。余りにも、お粗末すぎて、困ってしまうが、これが、日本の現実なのであろうか?一体全体、どのように理解したら、良いのであろうか?続々と、これに類する投稿が後を絶たないらしいが、、、、、、百罰一戒たり得るのか?それとも、、、、、、、、、。これでも、まだ、不十分なのであろうか?流石に、これを、病気であると云う評論家は、この時点では、まだ、現れてこないようである。いったい、どのように、考えれば宜しいのでしょうか?世も末だと嘆くのは、簡単であるが、、、、、。



田嶋 健、「大津絵っぽい木版画展」を覗く:

2013年08月13日 | 伝統工芸・展示会
田嶋 健、「大津絵っぽい木版画展」を覗く:
先月、銀座の77ギャラリー開催時には、うっかり、閉館日に、行ってしまったので、観れなかったが、旧軽井沢ロータリー前の酢重ギャラリー2階で、開催されていると告知されたので、久しぶりに、旧軽井沢銀座の散策も兼ねて、覗いてみることにした。大津絵は、芭蕉の俳句にも詠われていたり、キリシタン弾圧の隠れ蓑に使用されたとか、諸説色々であるが、その宗教画風から、やがて、風刺や教訓的な色彩が強くなり、転じて、魔除け・雷除けや子供の夜泣き防止などの護符的な要素が、強くなってきたとも謂われている。本物を観たことがないので、何とも、評論は出来兼ねるものの、タジケンさんによるそれは、現代風に、一寸、色使いや、テーマの素材や、構図が、アレンジされていて、版画、とりわけ、凸版として、なかなか、独特な雰囲気が出ていて、面白い趣向である。確かに、その点では、「大津絵っぽい」というのが、当たっていよう。何でも、大根おろしの摺りおろしを、摺り金の上に、残った大根が、まるで、山のような様相を呈し、しかも、摺り金が、サーベルのような感じにすら見えるとは、作者の繊細な心持ちを表しているようで、実に面白い。題名だけでなくて、作者の心意気を、もう少し、詳しくコメントして戴ければ、もっと、観賞する幅が拡がったのではないかとも思われた。何せ、こちとらは、素人なので、説明されないと、残念ながら、なかなか、作者の意図が理解出来ないものである。それにしても、版画家一筋とは、大したものである。彫刻刀一本に、全精神と神経を集中しつつ、頭の中に、描き出した抽象性を、具現して行くのであるから、、、、、、。机の片隅に、惰眠を貪らざるを得ないでいる我が家の彫刻刀にも、多少は、年に一度でも良いから、活躍出来る機会と場を与えてあげなければ、いけないのではないだろうかと、反省しきりである。表札だけではなくて、何か、山の風景でも、彫ってみようかと、素人ながらも、触発されるのが、何とも、情けなく、心許ない限りではある。久しぶりの旧軽銀座散策は、交通渋滞で、行きはよいよい、帰りは、こわいでした。

酢重ギャラリー(旧軽ロータリー前)2階で8月25日迄、開催中です。是非、ご覧下さい。
http://www.suju-masayuki.com/shop/gallery.php

女神湖花火大会を愉しむの巻:

2013年08月12日 | 社会戯評
女神湖花火大会を愉しむの巻:
高地の澄み切った空気の中での花火だから、何でも、色鮮やかになると謂われているが、有名な大規模な花火大会と違って、こじんまりとしたリゾート独特の夏の花火大会である。隅田川の花火大会が、急な雷雨で中止になったのとは打って変わって、澄み渡った星空の下での花火である。しかも、ほとんど、間近で、大玉の花火や水中仕掛け花火が、愉しめるので、密かな夏の風物詩を愉しむことが出来るローカルな貴重な催しものである。毎年、御泉水水太鼓保存会による和太鼓の披露が、打ち上げ前に、1時間ほど、行われるが、これが、又、なかなか、宜しいではないだろうか、やはり、花火と和太鼓は、合うものである。それにしても、一糸乱れぬ和太鼓の音色や乱れ打ちは、近くで、生で聴くにつけ、その音の迫力に圧倒されてしまうものである。去年は、何かの都合で、観れなかったものの、一昨年、観た場所とほぼ同じ場所に持参した折りたたみ椅子で、陣取り、ゆっくりとお弁当を食べ終えた後で、観賞できた。懐中電燈や、夜間の冷えたときの容易に、薄手のパーカーも持参して、前回の学習効果であろうか、しっかりと、準備を整えて、、、、、手近なところで、こうして、ゆったりと花火を間近で、愉しめるのは、実に、有難いことである。天候にも恵まれ、メッセージ花火なるものもあったりと、打ち上げ花火の数は、他の大きな大海に較べては、それ程、多くはないものの、夜空の星を眺めながら、ゆったりと、花火を愉しめるのはありがたいことである。来年も、又、夫婦揃って、観たいものである。写真は、なかなか、難しいものである。




「歌登」にみるインバウンド観光誘致の原点回帰:

2013年08月11日 | 映画・テレビ批評
「歌登」にみるインバウンド観光誘致の原点回帰:
極楽とんぼの加藤浩次による「がっちりマンデー」を、時々、観るが、すっかり、お笑い芸人の一面とは異なるパーソナリティーが、垣間見られて、面白い企画である。何でも、こんな世界の果てに、日本人が!という番組の逆張りではないが、日本にも、こんなに日本人が!と言う企画である。なかなか、面白い企画である。最近、旧いベトナム人の友人達が、来日したこともあって、観光に対する考え方が、小諸に来てから、変わってしまった。北海道の「歌登」と云われても、どれだけの日本人が、その位置関係を知っているのであろうか?何でも、旭川からでも、車で、3時間半も掛かる、稚内の南に位置する小さな街であると、しかも、何もみるべき観光資源に恵まれている街でもないようである。たまたま、街にある唯一のビジネス・ホテルが、経営立て直しの為に、スタッフの人脈から、タイ国の観光客を誘致する奇策に打って出たそうである。しかも、この観光の目玉が、何と、色々な日本文化の素朴な「体験」にあったそうである。最初は、年間200人程度であったものが、やがて、1600人(今年の見込みでは)になる勢いであるそうである。そして、クチコミで、タイ人の中で、歌登が、北海道のどの観光地よりも、いちばん印象に残った観光地であると、拡がってゆくことになったと。例えば、自分で、鮨を握って食べること、マグロの解体ショーは、無理なので、はまちの解体ショーだそうである。確かに、魚をさばくのは、特大の鮪でなくても良いかもしれない。食事をしているときも、和太鼓のパフォーマンスや、飛び入りの和太鼓を打ってみたり、餅つきのやってみたり、たこ焼きを自分で、作ってきたりと、、、、、、確かに、食文化を理解することは、食べるだけでなくて、野菜を作ってみたり、収穫してみたり、料理を作ってみたり、それが、野菜でなくても、肉でも魚でも、何でも宜しいのではなかろうか?和太鼓なども、日本人だと、叩く事自体も、一寸、憚られるものの、外国人であれば、何の躊躇もなく、問題なく、体験も可能になるわけである。京都での陶芸・手芸なども、お土産になると云うことで、大変、ベトナムの旧い友人ご一行様には、好評だったことを考えれば、すこし、頭を捻れば、「様々な体験」、とりわけ、「自国では、決して出来ない体験」を、手軽に、さわりだけでも、一つのパッケージにして、提供すれば、大変外国人には、好評であることが窺われる。してみると、何でも、観光資源の可能性が、知恵をひねってみれば、転がっていることが理解出来よう。夏に来れば、今度は、厳冬の季節を体験したくなり、そして、春の桜をめでたくなるし、秋の紅葉を愉しみたいとも思い、リピーターになることは、必至であろう。そうすれば、一人で、少なくとも4回は、来ることになるかも知れない。そう考えれば、観光振興とか、地域振興とか、海外イン・バウンドの観光客の促進とは、一寸したことなのかも知れない。うぅーん、考えさせられてしまう。今月末の海外ホスト・ファミリー受け容れの時にも、尋ねてみるとするか?



奇怪な声の主が判明致しました!:

2013年08月10日 | 自然・植物・昆虫
奇怪な声の主が判明致しました!:
ブログを読んだ方から、コメントをもらった結果、どうやら、Japanese Tree frog 「日本雨蛙」が、樹の枝に掴まりながら、顎の下の袋やお腹を大きく、膨らませながら、今にも破裂しそうな様子で、鳴いている映像をYou Tubeで、確認出来ました。有り難う御座います。これで、ようやく、一安心致しました。何とも、物真似で鳴き声に呼応しても、先方は、それを知ってか知らずか、分かりませんが、どうやら、鳴き声を返す習性があるようです。そう言われてみれば、確かに、冗談で、鳴き声を真似してみると、どういう訳か、呼応していたことを想い出されます。それにしても、こんなに、小さな身体で、あんな大きな鳴き声を出すとは、驚いてしまいます。しかも、器用に、樹の枝にとまりながら、鳴くとは、、、、、、。我が家のモミジの樹に生息する雨蛙も、この映像と全く同じような色、柄、大きさで、きっと、大きな声で、鳴くのでしょう。鳴いているところを肉眼で確認したいものですね。身近な自然が、又、一つ、増えた感じがして、何か、心が、ほぐれたようです。今度聴くときには、不気味な声の主ではなくて、小さな可愛らしい雨蛙が、樹の枝で、一生懸命に、鳴いているのを想像出来る喜びが出来ました。有り難う御座います。確かに、秋から、冬にかけては、鳴かないはずですね。身近な自然の中で、やがて、虫の声が、一段と、大きくなってきそうです。

下記サイトの他、様々な雨蛙の声が愉しめます:You Tubeより、試しに聴いてみて下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=T6H1pFgLxPM



呉 善花著、「日帝だけでは歴史は語れない」を読む:

2013年08月09日 | 書評・絵本
呉 善花著、「日帝だけでは歴史は語れない」を読む:
前作に引き続き、なかなか、センセーショナルな題名をつけるものであるが、反日の源流を検証するという命題について、歴史認識の違いを、李朝と幕末明治初期の歴史の中で、経糸に、東亜細亜の政治情勢を横糸にして、余り、学校で教えられなかった史実を基に、論じた著作を、なるべく、同女史の著作内容に従って、読み進めて行きたい。
どうして、どうして、なかなか、日韓の間の「歴史認識は埋められない」と。、、、、、、結論づけているが、、、、、、、。詳しく、その後を追って行くとしよう。
1945年の終戦まで、そんなに、長きに亘って、一貫して、日本に対して、朝鮮民族は、所謂、70年戦争を闘ってきたのか?その本当に意味するところは、一体、何なのであろうか?
日本民族の固有な資質による野蛮で侵略性によるとまで還元されてしまう歴史認識とは、
反日の姿勢を一貫してとることこそが、「愛国」に通じるし、これこそが、「日本蔑視の裏返し」に過ぎないと。謂わば、歴史認識の中に、無意識かどうかの如何を問わず、「反日の国是」が、「民族アイデンティティーの核」を形成しているのではないだろうか?
中国による「大中華主義」と朝鮮民族による「小中華主義」に根ざすものであって、植民地支配による反日思想ではないのではないかと、李承晩による日本蔑視観による民族国家の統一もこの延長線上で読み解けると、明治初期の「征韓論」という日本側の危機意識の一面も、影響はしているものの、、、、、中国を中心とする東亜細亜の秩序の破壊、世界秩序から、離脱、独立させることが「日本の国益」であるとの判断からか?。ここから、具体的な歴史的な史実の考察へと入ってゆく。
「金玉均」(キム・オッ・キュン)らの朝鮮独立党の歴史的位置、「甲申クーデター」の失敗、明治17年、1884年「日清戦争」、1894年、「天津条約締結」へ、という流れのなかで、考察されるべきものであると、李朝とは、どんな国家だったのか、李朝の亡霊とは、一体何なのか?ヘンダーソンによれば、それは、嫉妬深い中央集権主義、血縁小集団が上昇志向の共通性によって維持されたものであると。両班による不毛な争い、子孫へと世襲される憎悪の系譜、大院君による李朝末期の復古的改革と専制政治への復古とキリスト教徒への弾圧と殺戮、自らへの「縦の忠誠」を徹底的に強化し、「個人独裁」を可能にしたが、この手法は、「反共・反帝」という戦後の韓国、李承晩や北朝鮮の金日成に、そっくりそのまま、継承されたる「政治手法」であると。だとすれば、その後の展開は、今日、その亜流で在りつつけているのであろうか?継続性は、民政移管でも断ち切れていないのか?
幕末の頃の「釜山の倭館と長崎の出島」の違いは、そのまま、江戸幕府と李朝の鎖国の違いを物語っているのかも知れない。1865年、ロシア船、1866年のアメリカ・シャーマン号、フランス極東艦隊による所謂、洋夷を、幸運にも撃退してしまったことによるに李朝の鎖国攘夷政策の貫徹という成功体験と日本の黒船との蹉跌の違いをどのように、歴史は、評価するのか、
何故、中国や日本が欧米列強による圧力に屈服し、開国したのに対して、皮肉にも、国力の劣る李朝が攘夷を貫徹できたのであろうか?それは、英独仏米国を含む西欧列強による東アジア戦略上の単なる一時的な退却という情勢判断だったのであろうか、
皮肉にも、この李朝による成功体験である、「正を衛り、邪を斥ける」(衛正斥邪:えいせいせきじゃ )の決意を固めて、中華文明を「正」とし、中華文明に従属しない民族を「邪」とする「小中華主義」が、謂わば、日本的な尊皇攘夷のイデオロギーの対局に、国家スローガンとして、敷衍されてゆくことになったのであろうか?
日本新政府の政権樹立の国書受取を拒否したのも、倭夷が、単に、洋化して、「仮洋夷」となって来襲したとして、衛正斥邪の対象に過ぎぬと、排斥の声を大きくしていった。(何とも、国書ならぬ、首相の親書を、竹島問題を理由に受け取らぬのは、今に、始まったことではないことが、改めて、思い知らされる。)
当時のこの間の日本国内での征韓論と、その世界観、対朝鮮観、そして、李朝の世界観、対日観は、今日でも、国書陰謀・謀略策についても、冷静に、双方の共同研究で、比較検証されなければならないと思われるが、、、、、。
皇帝(エンペラー)と王(キング)との解釈の違いは、何を意味するのか、
仮洋夷と化した順化を遂げない夷族の日本と、攘夷を乗り越えて維新を遂げた日本からは、李朝こそが、時代錯誤も甚だしい、許しがたい存在そのものに映ったのかも知れない。所謂、「世界文明・歴史観の激突」だったのかも知れない。もっとも、それは、粗暴な帝国主義の覇権争いという事実にも重なろうが、、、、、、、。
この10年間に及ぶ復古主義が、外には強固な鎖国攘夷主義と中国への忠誠を進める李朝という国家は、日本側からみれば、国家防衛戦略の観点からして、「著しく、大きな危険な頼りない障害」に見えたのかも知れない。この間、欧米への視察使節団派遣、電信・鉄道・新聞・学制改革など、欧米に追いつき追い越せと近代化と富国強兵策をとることになるのであるが、、、、、、、一方、李朝では、大院君の失脚(1873年)後、再び、「外威勢道政治の復活」と政争・内部抗争が繰り広げられることになる。
日本人の歴史認識には、「皇国史観と侵略史観」とがあると韓国側は主張するが、考えてみれば、日本側から、それでは、「韓国の歴史観・世界観は、どんなものであろうか」とする議論は、確かに、著者が云うように、あまり、マス・メディアには、耳にしたことがないのも事実であるし、取り上げられることはないのが実情であろう。ましてや、韓流ブームの中で、冬のソナタの中で、真面目に、論じられ、解析された試しはないような気がしてならないが、、、、、。どうなのであろうか?
「中華主義」、それは、こう考えることになる。即ち、「自らが世界のまさに中心に在り、その中心から遠ざかれば遠ざかる程に、野蛮で侵略的な者達が跋扈する文化果つる夷族の地となる。中心にある優等なる中華が、周辺の劣等なる夷族に文化・道徳を与えて感化・訓育し、中華世界の支配下に組み入れて行かなければならない」、こうして成立した世界秩序を、「華夷秩序」と呼ばれ、これに参加しない周辺国家・諸民族は、常に、「夷狄」として、征討の対象にとなることを覚悟しなければならないことは、言を俟たない。何やら、何処かの島嶼防衛や離島の不法占拠を、身近に、想い出すと、このキー・ワードで、謎解きも、出来なくはないが、、、、、、、。
何も、「朝貢外交」を例に出すまでもなく、地理的に遠い日本に対しては、当然、「侮日観」が、あってもおかしくはないであろう。成る程、「Kポップス」も「韓流ドラマ」も、このキーワードで、読み解くと、なかなか、興味深い側面が見てとれようか?文化・道徳を与えて、訓育すべき対象の国なのか?それらを差し引いても、「英国と米国」の「植民地・被植民地」の関係性と違い、植民地戦争を闘いながらも、今日、「共通の価値観」を有する国柄とは、随分と大きな差異が日韓にはあるように感じられてならない。
「華夷秩序」から、「常に一定の距離を保つ」ようになった古代からの日本という国は、ある種、特異な存在だったのかも知れない。やがて、それは、学ぶ対象から、克服する対象へ、そして、夷族扱いされることすらも、何とも思わない「独立心」が、独自の文化的な発展の中に「以小事大」(小を以て大に事(つか)うる者はその国を保(やす)んず)という孟子の言の如く、小国が大国に礼を以て仕える「事大主義政策」と「交隣外交」に徹することになると、
李朝による、仏教を抑圧して儒教を崇める「(抑仏崇儒)政策」の遂行、皮肉にも北方の夷狄である女真族が、明を滅ぼし、清を興すと、心では、「事大主義」を信奉するにもかかわらず、心の底では、清を夷狄として、蔑視するという精神構造、大中華なき世の小中華思想の樹立という「現実と理念との乖離」の弊害、「事大主義と交隣外交」、これも、何処かで、今日、聞いたことのあるような気がしないでもない。今日でも、振り子は、常に、大きく、右に左に、北に南にと、揺れ動いているのであろうか?
韓国人は、「先祖(民族)が、受けた被害に関わる限り、歴史の中で現在を見る」という見方が強く出るようである。歴史意識の根本に、先祖の功績も罪責も子孫が受け継ぐという根深い発想があるのだろうか?。
日本には、夷族秩序に抗して自立しようとする一連の自主独立の国の流れが当時は、あったようである。秀吉は、夷族秩序を破壊しようとしたのではなくて、トップに立とうとした天下取りであり、「明治期の所謂、征韓論」とは、異なる側面があろうかとも、後者はむしろ、夷族秩序を明らかに破壊して、自らの手で、「東亜細亜の新秩序」を創出しようとした違いがあるのかも知れない。韓国の云う所謂、「古代からの侵略思想の系譜」、或いは、「民族的な残虐的な固有な侵略性格」という延長線上では、議論にはならないのではないだろうか、
江戸期の国学の勃興は、一見、漢的なるもの、仏教的なるものを排除してはいるものの、日本的なるものの中で、異質な文化すらも天皇制に矛盾しない限り、底流では、受け容れてきたものかも知れない。佐藤信淵による日本版中華主義、自民族優位主義、及び、西欧列強によるむき出しの帝国主義に潜むレイシズム(他民族蔑視に伴う自民族優位主義、劣等視、蔑視)、侵略主義の共通性、等というものは、指摘できなくもないけれど、、、、、、。
吉田松陰が、異なるところは、西欧近代化との接触によって、皇国史観の外征論に合理的な根拠を与え、より現実的なものとしたことなのか?この辺の理解の仕方には、少々、時間を費やさなければならないであろう。これだけでも、一冊の本が書けそうである。「所謂、征韓論」とは、世界制覇の非現実制の中で、形を変えた東亜細亜での一種の夷族秩序の破壊、覇権争いになったのか?その延長線上で、考察されなければならない内容のものではなかろうか?
中国・朝鮮での民族的な世界観と「鏡の裏表のような関係」で、日本でも互い同士を、劣等視、蔑視したことになるのか?征韓論、外征論の内実とは、こういう側面があったのであろうか?当時の意識からすれば、今日でも、「馬鹿でも、チョンでも」と言葉上の民族差別だと云われている如く、言葉だけでなくて、世界観の底流に、そうした意識がなかったとも思われないことはないが、、、、、しかし、それだけでは、解き明かされないのではないだろうか?
 明治期の征韓論の背景」は、単なる往古の復古主義では無くて、こうした背景があったのか?我が地から、彼の地から、双方で、同じ土俵の上で、考察されるべきものなのかも知れない。李朝の夷族秩序からの離脱、(開国、独立)こそが、日本にとっての安全保障上、外交上の喫緊の課題だったのかも知れないが、、、、、、、。それこそが、まさに、唯一無二の当時の国益だったのだろうか?そうかも知れないし、別の途があったのかも知れないが、それが、何であったのであろうか?又、当時、冷徹なむき出しの帝国主義争いの中で、そんなきれい事や理想主義を語っている暇があったのであろうかとも思える。歴史に、仮の議論は通じないことは確かであるが、、、、、。
1873年末、大院君に代わり、閔氏政権が、日本との武力衝突を回避するために、外交交渉に臨むことに転換するが、結局、挫折して、日本は、1875年砲艦外交に出ることになる。
そして、日朝修好条規の締結に至るも、李朝側には、国際法、不平等条約への理解が本当に、なかったのか?それは、果たして、人材不足で、片付けられるのか?
李朝に於ける「開化派と旧主派との対立」、閔氏政権は、国論不統一。対立を抱えたまま、開国・開化策へ移る、不完全な軍制改革と腐敗・汚職・内部分裂、クーデター未遂など、
金玉均らの青年官僚のもう一つの開化グループとしての(独立党)の存在、そして、1882年にソウル反乱が起こり、閔氏一派を追放し、大院君の復帰に至る。目まぐるしい展開である。この間、開化派の官僚等が、天津に滞在していて、李鴻章に開国策に反対する大院君のクーデターで日本軍が居留民保護の名目で出兵軍事衝突の恐れがあり、清国に調停のための派兵を要請することになる。この清国の派兵に伴い、反乱軍は一掃され、大院君派は、捉えられ、再び、閔氏一派が、清国の庇護下で、復帰し、清国の影響力が強まることになる。まさに、振り子は、右に左に、目まぐるしく、ブレ始める訳である。
この壬午軍乱は、日本・清国に、それぞれ、「外交政策に大きな変更」をもたらすことになり、清国は、「対朝鮮干渉を強化」する方向をあらわにした。やがて、これが、ソウルの軍事制圧・進駐下、不平等条約、中国式軍制改革などへと繋がり、1882年10月には、実質的な属国化されることになり、「これまでの宗属支配」から「近代的な帝国主義支配」へと移行することになる。
清国は、1879年日本政府による琉球領土の組入れ後、日本の朝鮮への独占的な進出を牽制する姿勢をとることになる。この辺は、まるで、今一の沖縄・尖閣諸島を巡る中国の歴史的な認識を垣間見るようで、実に、面白いが、朝鮮半島情勢も沖縄の歴史的な戦略的な位置づけは、全くと言って良いほど、19世紀後半と、今日、変わっていないことが、再認識される。
日本は、この時点で、飽くまでも金玉均(キム・オッ・キュン)らの「独立党を支援」することで、「朝鮮の独立と近代化」を図るという基本線に変わりはなかったものの、「清国による干渉強化」により、対外的な「外交政策の修正」を迫られてきた。
そんな中で、開化派は、二つのグループに分裂する、閔氏一派と連帯し、清国による干渉が強化されようと、清国の影響下でも近代化を推進しようとする金弘集、等と、飽くまでも、清国からの独立を目指す近代化を強く唱える金玉均等の「二派に分裂」する結果になる。この80年代の対立は、必ずしも、親清派、親日派、或いは、現実派、理想派、或いは、穏健派、過激派という構図ではないのかも知れない。当時の朝鮮の国益と日本の国益は、果たして、朝鮮独立と言う点で、如何なるものだったのであろうか?何故、開化派は、一丸となって、近代化が出来なかったのであろうかと言っても、仕方の無いことか?歴史の史実の中では、それは、ないことか?
官吏の腐敗と科挙試験制度の堕落と官職の事実上の売買と李朝末期での安東金氏勢道政治時代、大院君執権時代、閔氏勢道政治時代、際限なき悪貨私鋳造の泥沼化に陥った李朝末期、そんな中での2度に亘る金玉均の来日(1882年)と福澤諭吉との出逢いと自主・独立思想の影響、李朝・清朝・日本の近代化に伴う洋学理解の人材の相違、中国の近代化を見限った福澤の真意と文明論の概略、(これは、丸山真男の本を、もう一度読み直さなければならない)、福澤の目論んだ、文化的手段による李朝改革・朝鮮維新への援助と近代化政策の頓挫、悲劇的な文士肌の新任公使竹添進一郎と金玉均のすれ違い、清国外交顧問のメルレンドルフの険悪な関係、国債委任状に関する竹添報告に伴う日本借款問題の実現の困難化、或いは、米国との借款交渉の不調、ベトナム進出中のフランスからの借款も頓挫、
1884年、借款失敗後に、帰国すると同時に、日本の対韓政策が変更されることになる。
メルレンドルフによる当五銭貨問題を契機とする排斥運動と独立党に対する閔一族による圧迫、清仏戦争を契機にしたクーデター計画のアウトラインと西欧列強の動きとロシアの南下政策、高宗の金玉均への密かなる期待、福澤・井上による後方支援への、日本への期待と不安、果たして、クーデター後の展望とは?本当に、何通りのシナリオは、きちんと、準備されていたのであろうか?
英米に期待する朝鮮半島での「日本・清国の影響力の排除」と「ロシアの南下政策」、当時の日本の力を過大評価することは出来ないが、ロシアや西欧列強の干渉を排除する力は、当時の日本には、この時点では、未だ、無かったであろうことは容易に想像される。
そして、1884年明治17年、12月4日、甲申10月、クーデターは決行されることになる。翌々日には、袁世凱等の清国軍による攻撃開始、竹添公使と村上中隊長の意見不一致による公使館への撤収と仁川への退却、そして、12月13日長崎着へ、日本亡命へ、清仏による和議成立と日本政府の対韓政策の再びの変化、何故、竹添公使への政府訓令が遅れてしまったのかという謎!、慎重案である乙案が、即座に伝達されなかった謎!、公的文書だけでは解き明かせないもう一つの謎!、
まるで、いつの時代も、「現場の独断専行」という何処かで聞いたことのある言い訳、何とも、不可解な成り行きである。12月下旬に、三田の福澤諭吉邸での再会、その後の民間人融資等による亡命援助支援活動、結局、甲申クーデターの半数以上の処分者は、日本の陸軍戸山学校の士官・下士官出身者や留学生たちであった。国家反逆罪により、その一族にも、凌辱刑が及んだことは、非情な過酷な政治の結果以外の何ものでもない。その後、1885年の「漢城条約」と伊藤博文と李鴻章との交渉による「天津条約」の締結、双方駐留軍のの撤収に至ることになる。この間、「朝ロ密約の暴露」が起き、メルレンドルフが解任される。今や、日清両国による覇権争いから、「ロシアも含めた三極すくみ」になる。既に、時計を逆廻しに見てくれば、日清戦争、日露戦争という構図が、底流には垣間見られることになる。イギリスによる巨文島のウラジオ港戦略的封鎖意義とロシアとのアフガン対峙。何とも、今日でも、何故ロシアが、アフガン侵攻したのか?日露戦争での日英同盟が締結されたのかという時間の逆廻しが、極めて、分かりやすい。
幽閉中だった大院君の帰国による閔一族内部での袁世凱一派とロシア派の暗闘、やがて、世界情勢の中で、歴史に翻弄されるように、日・清・朝各国間で、厄介者扱いされるようになった金玉均の立場、9年3ヶ月に及ぶ日本での亡命生活、そして、国外退去問題、1885年の大井憲太郎による大阪事件の発覚等、榎本武揚・犬養毅・中江兆民・福澤諭吉等の民間人からの亡命生活中での支援と福澤による忠告にもかかわらず、巧妙な上海への誘い出しと1994年3月28日の暗殺。4月14日の凌辱刑の実行。
翌5月、「甲午農民戦争(東学党の乱)」が起こり、これをきっかけに、日清両軍による「日清戦争」が始まる。戦後、1895年下関講和条約が締結される。そして、後の三国干渉へと繋がる。旧独立党派も開化派もやがて、完全に、壊滅してしまい、「李朝によるロシア接近」へと繋がって行く。
歴史の不幸なツキのないタイミングに見放され、翻弄された金玉均の理想と現実、
著者は、同書の中で、飽くまでも、歴史の史実を読み解くことで、歴史認識が、只単に、日本帝国主義による悪しき植民地主義教育や反日的な感情ではなくて、むしろ、歴史を遡ることで。朝鮮民族に潜む「無意識の中で、日本及び日本人に対して、劣等視してしまうことから来る予断」、これが、「朝鮮に於ける歴史理解である」と、歴史認識のズレは、中華主義や、小中華主義から、来ているので、「本当に埋めることの出来ない溝」になってしまっているのか?様々なキー・ワードの中で、歴史認識を解析しようとしてきたが、甲申クーデターの歴史的な評価は、どのように、各国で下されているのあろうか?又、日本での教育では、この間の幕末・明治初期の外交政策、とりわけ、対李朝・清国・ロシアとの関係が、どちらかと言えば、「米国」との黒船・開国以降の関係で主として、語られてばかりで、あまり、本格的に、教えられていないような気もする。今日の国際情勢、とりわけ、東亜細亜の情勢は、これらの歴史認識との議論とも読み合わせてみると、実に、興味深いものが見えてこよう。本の題名に、惑わされることなく、客観的に、読み解くと、なかなか、面白い側面が見えてくるような気がしてならない。



この声の持ち主は、一体、誰なのであろうか?:

2013年08月08日 | 自然・植物・昆虫
この声の持ち主は、一体、誰なのであろうか?:
松林や、木々の中から、散歩をしていると、得体の知れない、不気味なギャッ、ギャッと言おうか、グェッ、グェッ、ケケケと言う短い声が、聞こえてくる。その都度、声のする方向を確認すれど、樹が高いせいか、よく分からない。初めは、鳥かとも思い、目を懲らして見れど、どうやら、鳥ではないらしい。仏法僧かとも思われたが、そんなサイズの鳥であれば、目視で確認も出来るし、又、羽音でも、判別できようが、、、、、、どうやら、鳴き声も異なるようである。ベランダの樹の上の方からも、時々、鳴き声が聞こえてくる。鳥でなければ、蝉か?、秋から冬場にかけては、この声の主は、現れないみたいである。蝉でもなければ、樹に生息するカジカ系の蛙の類であろうか?そんな小さな身体で、こんな大きな声を出すのであろうか?何のための鳴き声なのであろうか?オスなのか?それとも、メスを呼ぶ声なのか?ここ何年来、この木々の間から、聞こえてくる声の主が、少々、気懸かりである。少なくとも、東京の大都会では、聞いたためしがない。必ずしも、雨が降りそうな時にばかり、鳴き声が聞こえるというモノでもない。晴れていても聞こえるし、夕方にも、蜩と一緒に、掛け合い的に、鳴き合戦を繰り返す。ネットで、カジカの声を聴いてみたが、これらに合致する声の主とも、思えない。のべつ幕無し、蝉のように、一日中鳴いているわけでもない。今度は、詳細なデータをとってみることにするか?初めと終わりの短い録音であるものの、少なくとも、何者かが、木々の中から、鳴いているようであるが、、、、、。ひょっとして、誰かが、笑い袋を、木の上にでも置き忘れたのかも知れない?鳥の鳴き声も、なかなか、面白いが、この声の主が、分からぬのも、一寸、気になって仕方ない、、、、、、。試しに、聴いてみて下さい。何とも、奇妙な鳴き声であります。

http://pub.ne.jp/MX2141688/ ポッド・キャストで、聴けます。



新しい言葉の表現としての歌謡曲:

2013年08月07日 | 社会戯評
新しい言葉の表現としての歌謡曲:
歌手の由紀さおりが、山ろく清談のなかで、一寸興味深いことを言っている。日本語は、美しい言葉の響きがあって、リズムではなく、旋律の言葉で、歌謡曲の系譜は、その流れの中であると、歌謡曲には、20曲あれば、20人の女性像が在り、人生の一コマ一コマを謳い分けるのが、歌手であると、成る程、今は、シンガー・ソング・ライターも自分の事しか歌わないし自分の思いを伝えて共感してもらうが、今の若い人の歌は、鼻濁音を使用せずに、表現も直接的な文言であると、、、、、。そうしてみると、ニュー・ミュージックや、フォークが出てきたときには、一体、当時は、どのように、評価されていたのであろうか?演歌の方からすれば、困ったものであると、思われていたのであろうか?それでも、未だ、今に較べたら、マシな方で、美しい言葉の響きがあって、旋律に乗ったメロディー・ラインだったのであろうか?新しい言葉の表現として、童謡や唱歌や歌謡曲は、今日でも、その時の記憶と同時に、継承されて行くことであろう。そこに、何かが初めて伝わることになるのであろうか?美しい旋律、美しい言葉で、美しい歌い方で、或る日、突然、国民的な大ヒット曲が出てくるのであろうか?それとも、そんなことは、今や、望むべくもないことなのであろうか?又、小林秀雄の「美しい花がある。花の美しさというものはない」と言う言葉が、想い起こされてしまう。唄の美しさ、歌い方の美しさ、旋律の美しさ、言葉の美しさとは、一体、どういうものを指すのであろうか、




日本人インド仏教再興指導者とカースト制下の不可触賤民:

2013年08月06日 | 社会戯評
日本人インド仏教再興指導者とカースト制下の不可触:
奇しくも、信濃毎日新聞の山ろく清談の中で、取り上げられていた佐々井秀領氏の記事の傍で、カーストを超えて結婚した最下層の男性が、悲劇の結末として、自殺とも他殺とも云われかねない不審死に、見舞われるという記事が、目にとまった。インドには、ヒンズー教のカースト制度で、最下層とされてきた「不可触」が、1950年、憲法により廃止されても尚、今日でも、公然と、そうした筆舌に尽くしがたい「悲惨な差別」が、続いていると、、、、、。「闘う仏教徒」として、50年近くも帰国もせずに、インド仏教を再興する活動に身を委ねて、現地での改宗活動に、関わってきたことは、日本人として、おおいに、誇りに思って良いのではなかろうか。最も、敢えて、「闘う」と冠した訳は、如何に、仏教界が、「闘ってこなかった」、或いは、「闘っていない」事実を、過去も、現在も、示しているという皮肉であろうか?確かに、仏教徒になれば貧困から逃れられる保証がある訳でもなく、偏見が無くなる訳ではないが、それでも、最低限度の「人間としての尊厳」を取り戻すことが出来る「きっかけ」になることは、少なくとも、事実であろう。印度現地では、和尚様と子供達からも慕われる、そうした活動をしている人物の目から感じた日本は、どうやら、僧侶は、今や、人々からは「遠い存在」になり、葬式や命日や盆の先祖供養などの宗教行事化してしまい、と同時に、街を行き交う人々からも、「熱」を感じられないという。同僧によれば、人間は一度は死ぬのであるから、「必死」ではなく、何としても、生きなければならない。「必生」(ひっせい)が、必要であると、、、、、、、。
そういう意識が、活気を与える原動力であるとも、訴えている。3.11にしても、原発にしても、日本仏教界からは、その既存・新興宗教の如何を問わず、どうも、大きな声が聞こえてこないが、「闘う仏教界」は、日本では、どうして、存在し得ないのであろうか?身分制という差別はなくなったものの、「心の中での差別意識」や、「貧富による差別」が、日夜、紙面に踊らぬ日はないのは、どうしたものなのであろうか?この77歳の老僧の言葉と行動・生き方に、学びたいものである。それとも、単に、他人の不幸に目をつぶり、インド人に生まれなくて、良かったと思い、呟くだけなのだろうか?



呉 善花著、「私は、いかにして日本信徒となったか」を読む:

2013年08月05日 | 書評・絵本
呉 善花著、「私は、いかにして日本信徒となったか」を読む:
オ・ソン・ファ女史の二度に亘る韓国入国拒否をきっかけに、同女史の著作を読んでみたくなりました。この著作の題名は、もともと、内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎」にあやかったもので、更に、「日本信徒」とは、奇しくも、「スカートの風」で、山本七平賞受賞した山本氏のユダヤ教・日本教からも連想される題名であろう。
自身自らを周到な観察の主題対象としながら、「何故」では無くて、「如何」にして、そうなり得たかを検証してゆく著作で、一種の文化比較論的なものであろうか。例えば、異なる日韓の文化的な差異の実例として、様々な具体例が、挙げられている。日本人商人と母国のそれとの違い、消しゴムの貸し借り事件、弁当のおかずのつまみ食い事件、じか箸を嫌う日本人のこと、食事作法の違いへと、日常使用する食器の重要性、ステンレス製食器と陶器の食器の違い、風呂と食べ物に対する実利主義的な日韓の差異、等々、やがて、それは、美意識の違いの認識へ、日本人の美意識を理解する上に、風景や庭や、焼き物、絵画、等をだんだん、見るように努力することになる。これらを自らの具体的な体験の中で、赤裸々に語ってゆく。親愛の情の表現の仕方の違い、無意識の習慣行為が、微妙に、相互の差異を拡げることになることを実感してゆくことにもなる。内面的な私的な悩みを話すことが、親しい相手に心を開くかどうかの差異等、相手を文化的・民族的に「無意識のうちに身内世界に取り込む」という「無作為の錯誤の意識」があるのではないかと。
そして、これから、更に、国や民族の習慣の違いの問題から、「人間同士の距離感」、歴史的な「美意識、感覚」の問題、これらが齟齬をきたすことになる根本的な原因を考察することになる。客観的に見られるのには、5年は掛かると、そこまで、葛藤を我慢して、石の上にも5年は、住み続けなければ、何もわからないとその体験から、結論づけ、二年半余りの滞在で、「日本はない」という本を著した著者への批判を展開するに至る。
「表音文字としてのハングル」と、「意識の客観的な対象化」をより明確にしてくれる漢字を使っての「漢字語」との違いが、「日韓の言葉の問題」に、関連していると、
韓国での漢字の廃止が、抽象度の高い思考をする手立てを奪ってしまったとも、「漢字の表意性」を抜きにして、「表音性だけ」で自在に高度な概念を用いることには、無理が生じていると、なかなか、この辺は、「言語学」とも絡んで、私のようなハングルを理解していない人間にも、成る程とも感じられよう。
日本人の好みは、命のように「動いているもの」、動きを感じさせるもの、過去や未来を感じさせるもの、「未完」で、完成されていないものを好む、精神が停止しいては駄目だということを、やがて理解出来るようになる。
「韓国人の恨み」と「日本人のもののあはれ」の差異、恨みは「自分の欠如への否定」から出発するが、もののあはれは、「自分の欠如への肯定」から出発していると、お互いにどのように理解すべきなのか?確かに、若い頃、まだ、友人の義理のお父様が大手の商社の支店長だった頃、ソウル出張時に、際入れを宅便したところ、会食の最中に、韓国の「怨歌」と日本の「演歌」の差異を、この「恨み」をキーワードに、議論したことを懐かしく、想い起こす。(本来なら、「怨み」かも知れない)そして、同女史は、「独善で、やがて哀しい韓国人」と、結論づけることになる。
この著者にとっては、日本での自らの「アイデンティティーの喪失」とは何だったのか?とりわけ、外国で、長い間、生活してみると分かることであるが、まずは、人種的な民族的なアイデンティティーを実感し、然る後に、自らの個人のアイデンティティーを問うことになるのは、十分、理解しうる。その喪失感に替わり得るものが、その日本の地である「日本教」だったのであろうか?

反日、克日、という国家スローガンから、韓国では、「愛国=反日意識化」が強調されてしまうと。韓国のインテリは、根本的な自国批判、自民族批判をやりたくても出来ないという悲劇があり、「学があること」=反日であること、学校で反日、民族イデオロギー教育と家庭における一定の評価との落差は、何故なのであろうか?
同女史は、大中華主義の変型に過ぎない「小中華主義と侮日観」が、或いは、言葉を換えれば、「自国民族優位主義」が、「意識の底流に潜んでいる」と、それらが、今日でも潜在意識の中にベースとして常に潜んでいて、何かにつけ、ことある度に、鎌首をもたげてくるのではないか、それは、丁度、戦後の「象徴天皇制」と深層での日本民族の天皇制に対する考え方にも、共通の類似点があるのかも知れないが、、、、、、、。日本人的な発想から、「お詫びと謝罪と反省」という談話だけでは、済まされないもっと根本的な民族意識の理解が不可欠かも知れないとも思われるが、、、、、、、。

韓国での様々な経緯を振り返りながら、済州島出身で看護大学に行くのも、外国へ行く一つの手段であったものの、これを途中で、軍隊への入隊へと進路変更、そして、軍人で有りながら、大学へも通う生活を経て、大学卒業と共に、退役し、日本を経由してのアメリカ行きの為には、まず、教会の賛美歌団の一員で、老人ホームへの慰問がきっかけになり、初めての来日を果たすことになる。本格的な留学生としての来日を果たしてから、やがて、著者は、貿易会社でのアルバイトから、独立して、自らの語学学校で、(昼は)韓国人ホステス達に日本語を、(夜は)日本人ビジネスマンに、韓国語を教えながら、彼らの心の中に、自分の葛藤と同じモノを見出し、自身もビジネス・コンサルタントへと変貌して行くことになる。今日あるのは、その後の良き人との出逢いのおかげであると、結んでいる。

それにしても、国家安全保安部やメディアによる同女史叩き、そして、反韓国言辞等に伴う物理的な身の危険による帰化申請と日本での定住生活、民政移管という幻想、反韓国言辞に伴う自国批判を許さないという国是とは、一体、これらは、何なのであろうか?
少なくとも、日本では、どんなに、国家を批判しても、或いは、愚弄しても、パロディー化しても、今日、日本では、入国拒否や身の危険は感じられることはないであろう。もっとも、ネット情報で、何処かで、情報は、盗み見されて、データ・バンク化は、密かにされていようが、、、、、、。同女史による、ルース・ベネディクトの「菊と刀」に繋がるような日朝文化比較論への展開の可能性を今後、期待したいものである。
共通の価値観を有する国とは、逆説的に謂えば、歴史認識の差異を十分理解しうると云う価値観を有する国・民族でなければ成立しないのではないだろうか?最近の情勢を見ると単に、外交上のパワー・バランスだけで、一方的に言葉で発しても、余り、意味は無いのでは無いのかとも思えてならないが、、、、、、、、。今度は、李朝末期の歴史を勉強してみることにしてみましょう。



もう、桜の葉が、一部、オレンジ色がかってきました:

2013年08月04日 | 自然・植物・昆虫
もう、桜の葉が、一部、オレンジ色がかってきました:
ものすごい、蝉時雨である。耳の底から、鼓膜をジンジンと揺さぶられる。ふと、何気なしに、窓の外を眺めると、桜の枝の葉が、一部、オレンジ色がかっているのが、見られる。日差しがギラギラと照りつけている割りには、どういう訳か、風は、やや肌寒く感じられる。夏だというのに、半袖、半ズボンでは、少々、肌寒さを感じるのもおかしい限りである。夜は、窓を閉めていないとお腹でも壊しそうである。大体、8月も、毎年、お盆の15日くらいを過ぎた頃になると、夏も終わりになるのであるが、今年は、東北地方では、まだ、梅雨も明けていないと云われているが、、、、、、(やっと、明けたらしい)こちらは、もう、初秋のたたずまいの感を桜に於いては、呈しているといえようか?竜胆の紫色の花が、そこかしこに、可憐に咲き乱れている。未だ、萩の花は、流石に、咲いてはいない。恐らく、例年、8月末頃だろうから、これからなのであろうか?真っ先に、桜の葉は、いつも、季節の先取りを楽しむかのように、その他の木々に、先んじて、紅葉を開始するが、、、、、、今年は、早過ぎはしないだろうか?去年、植えた小さな黄色に紅葉する楓系の樹木が、今年は、愉しみである。新たに、黄色が加わることで、もっとも、樹が、成長するには、後何年かは、時間の経過を待たなければいけないが、、、、。景色・風景というものは、なかなか、一朝一夕には、ならないものである。やはり、ゆっくりと、その小さな微妙な変化を味わいながら、完成へと、徐々に、近づいて行くことになるのであろうか?それとも、「完成」などと云う言葉は、そぐわないのかも知れない。常に、「移ろい変わる」ものなのだから、、、、、、、。やがて、桜の葉も、オレンジがかった色から、深紅色に、そして、茶色に、最後には、朽ち果てて、落ち葉として、土に帰って行くことになるのであろうか、そんな季節の準備が、既に、始まりかけている8月の初めの里山である。それにしても、私を含めて、日本人は、「移ろい」というものを珠玉の喜びとして、愛でることを好むものである。頂点に達するまでの途中の変化を好むものの、それが、頂点に達した瞬間よりも、その一歩手前の寸前や、端緒をより好むような気がしてならない。すると、カメラマンは、どうなのであろうか?今を盛りの蝉時雨の天下も、いつまで続くのであろうか?何か、一寸、ものかなしく、寂しく、桜の葉を見ることになるのか?



枝豆冷製スープを作る:

2013年08月03日 | 男の手料理・食
枝豆冷製スープを作る:
いよいよ、枝豆のうまい季節が到来しました。やはり、冷凍の枝豆も便利ではあるが、この暑い夏には、露地物の枝付き枝豆が、鮮度が良くて、美味しいですね。何!やはり、生ビールと一緒に、グイッと一杯!残念乍ら、飲酒運転になるから、自宅で、、、、もっとも、ホームドクターから、中性脂肪が高くて、コレステロール値も高いから、アルコール類は、極力控えるようにと、ビールを飲むのなら、ビール一杯呑んだら、お水を二杯!、なんてことは無い、プリン体フリーを呑んでもうまくはないし、ましてや、ノン・アルコールなんて、くそ食らえであるが、、、、、。仕方ない、グイッと一杯だけ、、、、、、。さてと、本題に戻ろう!枝豆の話である。2束、さやをキッチン鋏でカットしてから、茹でて、豆だけを取り出して、玉ねぎを半分、再度、豆と玉ねぎをガスで、水とコンソメ・スープのキューブを入れてから、熱して、塩・胡椒で調整してから、ミキサーで、粉砕して、これにミルクを加えて、冷蔵庫で、冷やしてと、、、、、、。なかなか、冷えていて、実に美味しい!生クリームがあれば、もっと、宜しいかも知れない。今年は、枝豆、コーン、カボチャ、トマト、ガスパッチョで、スープのレパートリーを増やしてみるか?栄養バランスも良いし、手軽に、スープが愉しめそうである。



イラスト画の準備完了となる:

2013年08月02日 | 書評・絵本
イラスト画の準備完了となる:
いよいよ、絵本のイラスト画、全ページの挿絵が準備出来、水彩画の原画を受取りました。なかなか、粗筋のイメージ通りに、絵を描くと云うことは、難しいものであるようです。音楽でも、作詞・作曲・編曲更に、ピアノやギターで、自ら演奏まで、一人でこなしてしまうのは、本当に、大したものであります。本の中でも、絵本は、文字だけでなく、絵の雰囲気で、全く、その云わんとするところのものが、違ってしまい、残念な結果に終わることもありえましょう。既に、文章は、随分前に、絵本創作ノートで、完成していたが、イラスト画の方は、自分では描けないので、もっとも、描こうと思えば、クレパスと鉛筆で、描けないこともあろうが、その分量が多過ぎて、時間的に、無理であろうと判断して、(数年単位が必要となろう、結局、) 知人を介して、プロに、お願いすることにしたものである。限られた紙面の空間に、イメージを描き出すこと、そして、それが、文章とシンクロナイズして、イメージを鮮明に、読者の頭の中に、再生させる行為は、とても難しいものである。水彩画の一寸、淡い、ぼやけた感じが、何とも、心の中で、茫洋として、イメージする感じに、ピッタリである。これが、油絵であれば、全く、違った雰囲気になることであろう。どうやら、これを家庭用スキャナーで、スキャンするのと、プロ使用でのスキャナーで、イラスト画をスキャンするのとでは、全く、その色彩や陰翳の結果が、別作品にもなってしまうらしい。そういうものらしい。門外漢の私には、そこら辺は、良く実感出来ないが、後日、校正とデザイン、編集作業をお願いする段階で、実感出来るのかも知れない。子犬時代の我が愛犬が、まるで、生き返ったかの如く、ヒョコヒョコと、向こうから、鼻先で、ドアーを器用に、開けて、私の足許に歩いてくるようなそんな息吹きが感じられる。又、そっと、寄り添った時の、何とも言えない、「生きていたときのぬくもり」が、自然と想い出されて仕方ない。そんな錯覚を抱いてしまう。いよいよ、絵本の細かなデザインや校正作業を、打ち合わせる段階となり、最終データ化に向けて、佳境に入ることになる。はてさて、どんな絵本が完成となるのか、おおいに、たのしみである。オンディマンド出版という新しい形式での試みに挑戦である。

オンディマンド出版:OPS ココデ出版HP
http://www.opsco.jp/