瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

野口整体の教室、第2回目

2005年07月22日 | 瞑想日記
朝日カルチャセンター・新宿での野口整体の講座、第2回目である。前回は少し遅れたが、今回は5分ほど前に着くことができた。指導は、金井氏のお弟子さんであるT氏。他にアシスタントの方が二人。参加者は前回より少ない21名ほど。一回だけの「トライアル」参加の人が少なかったからかもしれない。

最初にT氏によるアシスタントの人への愉気のデモンストレーションがあった。仰向けになったアシスタントの人のみぞおちにあたりに愉気していると、自然にゆっくりとした活元運動が始まる。本人の体の歪みを戻すためにいちばん適した運動が自然に出てくるという。その感じは、自発動気功の経験から私もよく分かる。次に正座の姿勢からの愉気が始まるが、次第に腰の回転を中心とした運動になり、最後には、正座の姿勢からぴょんぴょんと飛びはねるような運動が出ていた。運動が、上半身から腰に下がって、歪みのおおもとにかかわる運動になっていくらしい。

邪気を吐いたり、骨盤を緩めたり、背骨を刺激したりする準備の運動のあと、音楽を聞きながら活元が始まる。後半のこの流れはいつも同じだ。今回私は、前回よりは若干動きが大きかったが、腰の回転を中心とした比較的ゆっくりした動きがずっと続いていた。終了後は、腰や下腹部がほぐれた感じで気持ちよかった。

準備運動から活元というワークを日常のなかでどれだけ出来るかが問題だろう。これまでは家でやってみようという気持ちにはならなかった。今は、少しやってみようか、という感じにはなっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唯一性の逆説

2005年07月22日 | 瞑想日記
私の経験の世界は「私」(エゴ)によって多かれ少なかれ粉飾されている。「私」中心に構築され、ゆがめられている。それが「私」の経験。しかし、「私」による粉飾や歪みは、限りなくゼロに近づいていくことが可能だ。粉飾や歪みが限りなく小さくなっていくとき、何が起こるのか。

おそらく、私の経験の世界は、私の経験の世界として唯一でありながら、その唯一性を超えていく。私の経験の世界は、「私」の経験の世界であることを超えて、限りなく開かれていく。もはや「私」による矮小化を受けず、限定を受けず、純粋主観性として、存在の静けさへと開かれる。

私の経験世界の唯一性が、そのまま、一元の世界に転換することの逆説。

「私」は、想念によって作られ、逆に「私」は、無数の想念の連続を「私」だと思い込む。その「私」が世界を限定する。

◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)より
「われわれは自分の想念を自分だと考え、自分のさまざまな思いを『私』と読んでいる。想念を手放すとき、われわれは自分自身、自分だと思い込んでいるものを超えてゆく。落ち着きなく動き回っている心の奥には、存在の静けさ、名前や評判などという守るべきものを一切もたない静寂がある。それが生来の心である。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする