瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

大地の母と偉大な女神

2006年06月24日 | 読書日誌
◆一日断食、挫折
今日、一日断食を試み、4時頃までは食べないでいたのだが、居間で家族とテレビを見ながらしゃべっているうちに、テーブルの上のせんべいなどをつまんでしまい、挫折。また明日、挑戦である。

先週も挫折しているので、最近週一回の一日断食というペースが崩れはじめている。

それとどこかで関係しているかも知れぬが、土日には必ずやっていた朝40分ほどの瞑想も今日はやっていない。

◆偉大な女神
父が、10日ほど咳き、痰が止まらないというので午前中、病院に連れて行った。それほど心配するほどのことではないとこのこと。病院での待ち時間の間、ケン・ウィルバーの『エデンから』を読んでいた。

以下のような部分(第7章)を読んでいた。

神話・共同体期の自意識は儀式のなかで「いけにえ」をささげ、様々な秘儀をとりおこなったが、それは大地の母(地母)をなだめて作物の豊穣などを呪術的に請願し自立する意識にまとわりつく罪の意識を打ち払うもためのものであった。

ところが社会一般が黄泉の国の母のもとであがいている最中にも本ものの覚醒を得た人々がおり、彼らは超意識の世界での救済をしっていた。自己滅却を通して全体との統合を直観できる精神があったのである。全なるものが理解されたときそこに到達するためには分立した自意識を滅却させねばならない。唯一の全が登場するためには自意識の「いけにえ」が必要だ。いわば永遠(偉大な女神)に至るために自我を十字架にかけ、炎に身を焼きつくしてはじめて真の解放があることがわかっていたのだ。(P148-150)

「自我の滅却」というようなところを読んでいるとき、限りあるいのちをどう生きるかという問いが、私のなかで重なっていた。限りあるいのちに問われているのが、自我の死、自我の「超絶」であることが、ますます明確になっている。一瞬一瞬、生きることの質が問われている。それは無明の自我に振り回されることではない。無明の自我の働きを自覚し、それに影響されないところで行為することだ。

私のなかにまだまだ無明の自我がうごめいている。深い怒り、まだ深く巣食っている優越-劣等意識。ただ、優越-劣等意識については、囚われが少なくなってきた部分もあるな、と感じる。

限りあるいのちを生きているがゆえに、そのなかでどれほどに成長し、解放されるかが、『絶対的な」意味をもった課題として迫ってくる。

コメント
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