昨日は、サティの調子を崩した。座禅をしていも最初は「やりたくない」という気持ちが強く、しばらくはその気持ちにサティをしていた。そのうちの脳が静まった状態になったが。しかし座禅が終わるとまた、サティはほとんどできなかった。
今日は、起床時からサティを取り戻した。通勤途中、新聞や本を読んでいるときはサティはできないが、それ以外、電車を待っていたり、電車の中に入ったり、カバンから本を出したりという動作にはサティを入れた。
仕事中の動作にも以前に比べるとかなりサティが入るようになっている。そして私にとって何よりも重要なのは、全体として想念・思考に気づくことが多くなっていることだ。無数の想念のうちの何パーセントかは分からないが、ともあれ思考する現場に気づいて、確認することができる。「もう、お手上げ状態ではない」という自信から来る喜び。(しかし、そこに慢心が入ることに注意してサティ。)
「自我」は、想念・思考という形で自ら機能する。自分の想念・思考に気づくということは、「自我」が働いている現場に気づくということだ。
瞑想が、「自我」の束縛から自由になることを目指すのであれば、今、まさに働いている「自我」そのものに気づく必要がある。その存在に気づかなければ、そこから解放されることもない。だからこそ、思考する現場に気づくということが大切なのだ。
湧き出る想念・思考が「自我」のどのような欲求や必要からなされているのかを一つ一つ確認することも大切だ。「思考」とサティが入ったときは、できるかぎりその思考の元を確認する。
「自我」がまさに機能している最中に「自我」の存在に気づくことは難しい。書いたり、おしゃべりしているときには、「自我」が気づかれぬままに独走していることが多いから要注意だ。
今日は、起床時からサティを取り戻した。通勤途中、新聞や本を読んでいるときはサティはできないが、それ以外、電車を待っていたり、電車の中に入ったり、カバンから本を出したりという動作にはサティを入れた。
仕事中の動作にも以前に比べるとかなりサティが入るようになっている。そして私にとって何よりも重要なのは、全体として想念・思考に気づくことが多くなっていることだ。無数の想念のうちの何パーセントかは分からないが、ともあれ思考する現場に気づいて、確認することができる。「もう、お手上げ状態ではない」という自信から来る喜び。(しかし、そこに慢心が入ることに注意してサティ。)
「自我」は、想念・思考という形で自ら機能する。自分の想念・思考に気づくということは、「自我」が働いている現場に気づくということだ。
瞑想が、「自我」の束縛から自由になることを目指すのであれば、今、まさに働いている「自我」そのものに気づく必要がある。その存在に気づかなければ、そこから解放されることもない。だからこそ、思考する現場に気づくということが大切なのだ。
湧き出る想念・思考が「自我」のどのような欲求や必要からなされているのかを一つ一つ確認することも大切だ。「思考」とサティが入ったときは、できるかぎりその思考の元を確認する。
「自我」がまさに機能している最中に「自我」の存在に気づくことは難しい。書いたり、おしゃべりしているときには、「自我」が気づかれぬままに独走していることが多いから要注意だ。