瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

自我が傷ついたとき

2008年12月05日 | 瞑想日記
仕事の面で少し失敗したことがあり、プライドを傷つけられた。駅までの道々、傷ついた気持にサティをし続けた。心にに痛みを感じつつ、その件をめぐって思考が始まる。「思考」とラベリングし、「自我が傷ついている」とラベリングする。思考に巻き込まれる寸前で気づきが入る。あとは、痛みを感じるままに「痛み」とラベリングし続ける。雨が降っていたが小雨になっていた。歩道が濡れて光り、ネオンを反射していた。それに目を奪われたときは「見た」、痛みを感じたら「自我の痛み」、また思考が復活してくると「思考」とラベリングを続けながら歩く。

少しばかり自我が傷ついているときの方が、痛みが気づきの対象として明確なだけに、サティが入りやすい、その分、思考に巻き込まれにくいと思った。「傷ついている自我」「思考している自我」が、すぐに対象化され、相対化されて、観察され続けていく。

日常のなかで大切なことは、無自覚的な動機に突き動かされるような思考にいかに気づくかだろう。「思考する自分」に気づき、客観化し続けること。それがサティの意味だろう。

昨日も紹介した「心に響く言葉」から二つ。

「仏心は元来不生なものなれば
その不生のままに  
その起こる念は起こらば起こり次第   
取り合わず育てずにおけば   
やむより外はおじゃらぬわいの」(盤珪)


「刷り込まれた思考による幻惑は深く、複雑ですが、
『止める』というシンプルな行為に対しては無防備です。」
「『止める』とはまず、理性の活動に気づきつつ、それに従わないことです。
理性の活動を追わない、というのは、理性に逆らったり思考を抑制するのとは違います。」(ガンガジ『ポケットの中のダイヤモンド』)

「心に響く言葉」の中ではこの二つの言葉が並んでいる。意図的に並べたわけではないが、期せずして同様のことを言っている。念(思考)が起っても「その起こる念は起こらば起こり次第、取り合わず育てずにおく」ためには、気づきが必要だ。「気づきつつ、それに従わないこと」ことが必要なのだ。気づきや観察がなければ、思考に巻き込まれ、育ててしまう。ただ気づきがあるだけでよい。思考に逆らったり、思考を抑制したりする必要はないのだ。 
コメント (8)
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