◆車椅子を押して父を教会につれて行き、父をおいて私は帰ったが、その往復30分ほどはサティをしていた。思考はかなり湧き上がってくるのだが、すぐにサティが入る。実際には「思考」とラベリングする場合が多い。数日前からサティの感覚がこれまでと少し違うなと感じていたが、今日もそれを感じた。
これまでは思考が湧いてくると努力してそれを止め、少しでも思考のない状態を持続しようとしていたようだ。そこにはどこかで思考を打ち消そうとする否定的な態度があった。今は、思考への気づき(サティ)を楽しんでいるような感じだ。思考する自分を受け入れているとでも言おうか。思考する自分を静かに余裕をもって見ているような感じか。それだけ、思考する自分と同一化しなくなったのかも知れない。
◆一昨日あたりからEckhart TolleのA New Earth: Awakening to Your Life's Purposeを再び読み始めている。以前90頁ほど読んでそのままになっていた。その中に
Complete identification with thought and emotion, that is to say, ego.(思考や感情との完全な同一化、それがいわゆるエゴだ)
というのがあった。この短い言葉が私には強烈だった。結局、私が自分と思っているものの実体は、言葉と思考によって織り上げられた仮構物にすぎない。それをあたかも実体があるかのように錯覚して、「私」として固執する。そこにエゴが生まれるのだ。
そのことがまだ私には実感としては分かっていない。だからこそ、日常的な思考の流れに気づき(サティし)、思考する自我としての私を徹底的に相対化していく必要があるのだ。
思考の流れに気づかずそこに埋没している間は、思考との同一化は続く。思考の流れから一歩離れて、それを「外から」眺められるようになると、自我の相対化が始まるのだと思う。
これまでは思考が湧いてくると努力してそれを止め、少しでも思考のない状態を持続しようとしていたようだ。そこにはどこかで思考を打ち消そうとする否定的な態度があった。今は、思考への気づき(サティ)を楽しんでいるような感じだ。思考する自分を受け入れているとでも言おうか。思考する自分を静かに余裕をもって見ているような感じか。それだけ、思考する自分と同一化しなくなったのかも知れない。
◆一昨日あたりからEckhart TolleのA New Earth: Awakening to Your Life's Purposeを再び読み始めている。以前90頁ほど読んでそのままになっていた。その中に
Complete identification with thought and emotion, that is to say, ego.(思考や感情との完全な同一化、それがいわゆるエゴだ)
というのがあった。この短い言葉が私には強烈だった。結局、私が自分と思っているものの実体は、言葉と思考によって織り上げられた仮構物にすぎない。それをあたかも実体があるかのように錯覚して、「私」として固執する。そこにエゴが生まれるのだ。
そのことがまだ私には実感としては分かっていない。だからこそ、日常的な思考の流れに気づき(サティし)、思考する自我としての私を徹底的に相対化していく必要があるのだ。
思考の流れに気づかずそこに埋没している間は、思考との同一化は続く。思考の流れから一歩離れて、それを「外から」眺められるようになると、自我の相対化が始まるのだと思う。
>心は、その運動が完全に手放されているとき、つまりすべての反応がマインドに許され、受容されているとき、自ずと静まるようです。
全体に、そうだろうなと共感を感じますが、特に、この最後の言葉が心に沁みます。ご自身の体験から滲み出た、深く味わうべき言葉だと思います。
最近私自身は、思考と戦わず、思考を静かに観察できるようになったのかなと、感じています。
例えば、身体には意識せずとも知覚が生じています。それは、意識せずとも血液が巡っているように、呼吸が生じているのと同じように、知覚も生じています。
心理的な運動(それは意志も含む)があるとき、その知覚は現れてきませんが、心が静かなとき、知覚は自ずと現れてきます。
この知覚は、身体感覚だけではなく、思考や感情の動きも察知しています。
意識的に注意力を高める、というよりは、心が静まっていれば、自ずと知覚状態になっていることに気づく。
そんな感じと思います。
で、心は、その運動が完全に手放されているとき、つまりすべての反応がマインドに許され、受容されているとき、自ずと静まるようです。
私も、サティしようとする意志が、意図的な努力という感じはいつもしています。意図的でなく、しかも気づいているあり方というのがあるのでしょうね。
>現象全体、そしてその一部として呼応する心理的な反応を、起こるがままに「放っておく」ことで、心の反応は自ら燃焼・収束するように感じます。
>現象全てが通り過ぎるままにさせる、
現象の変化は現象それ自体に任せるようにすると、意図する負担もなくなり、結果的に現象全体が自らをありありと主張?してくるような感じがします。
感じとして何となくわかります。これまで意志的なサティがが、私にとてちょっと大変なものという感じがずっとありました。そうでないあり方のほうが、はるかに自然です。思考へのサティの中にもそういう違いがあると思われます。
お久しぶりです。
その後、体調はいかがでしょうか?
最近「気づき」=「現象」と感じます。
「現象」=「自然な気づき」であり、それを再度認識するのが「意図的な気づき(精神の運動)」と感じます。
「思考」という特定の現象へサティする、というのは「意図的な気づき」であり、その精度を高めていったとしても「意図的な気づき」の範疇を超えないような気がします。
現象全体、そしてその一部として呼応する心理的な反応を、起こるがままに「放っておく」ことで、心の反応は自ら燃焼・収束するように感じます。
現象全てが通り過ぎるままにさせる、
現象の変化は現象それ自体に任せるようにすると、意図する負担もなくなり、結果的に現象全体が自らをありありと主張?してくるような感じがします。
もちろん、それが怒りという感情現象かもしれませんし、欲望かもしれませんし、起きてくるものの内容がなんであれ、それ自体に成り行きを任せるというか、放っておくというか。。
もともと生じている「自然な気づき」を覆っている滞りのエネルギーの燃焼を高めるというか。。
分かりにくい表現で、すみません。