グリーンヒル瞑想合宿レポートの続きを期待して訪問してくださる方も多いと思う。今回は、前回以上にゆっくりのペースになる感じだが、日々の日記を間にはさみながら、自分にとって負担にならない程度のスピードで進んで行きたい。ご了承を。
◆恐れと怒り
恐れと怒りが、最近の私の深いレベルでのテーマになりつつあるようだ。このテーマに関する夢が多くなっている。
9月5日だったかに見た夢。古い屋敷のような料亭での宴会に出席していた。その宴席に疎外感を感じていた私は、一人で表に出た。その屋敷は町のはずれにあったが、町の中心部でやっている祭りを見物に行こうかと思った。しかし、その方面からぞろぞろと人が帰って来るので、もう祭りは終わったのだなと思った。
屋敷の門からかなり離れたところに人影があり、私に向かって叫んでいる。「お前は、怒っているのになぜ、怒っていると言わないのだ」、そう言って私の方へものすごい勢いで向かってくる。私は、真に恐怖に囚われた。とにかく怖かった。「怒っています」と認めれば、それを言いがかりにして殴りかかられそうだった。「怒ってはいない、全然怒っていない」と叫びながら、必死になって、宴会場の屋敷に逃げ込んだ。
目覚めたとき、心の底から怯えていた余韻がはっきりと残っていた。そうか、私は自分のこの小心さ、臆病さ、それゆえの恐怖心を怒っているのだなと思った。その怒りを抑圧しつつ外部に投影している。とくに父の特定の行為に。この夢が印象的だったのは、いつもは抑圧している心底からの恐怖心を夢の中で逃げながら実感したからだった。
しかし、昨日だったかに、全く気にもとめていかなった夢の中の言葉が気になった。
「お前は、怒っているのになぜ、怒っていると言わないのだ」
「怒ってはいない、全然怒っていない」
このやりとりは、まさに抑圧した怒りとその否認をストレートに表しているではないか。しかも人影(影=ユングのいうシャドウ)が、そう語っている。私は、怒りを抑圧し、それを認めていない。抑圧された怒りという影そのものが、怒って私に攻撃をしかけてきた。
あと時感じた恐怖は、私の小心さを表すと同時に、自分の怒りに直面することの恐怖をも表していたようだ。
この夢は明らかに、合宿直前に見た「2006/08/08 (火) 怒りと恐怖の夢」に呼応しいる。
◆恐れと怒り
恐れと怒りが、最近の私の深いレベルでのテーマになりつつあるようだ。このテーマに関する夢が多くなっている。
9月5日だったかに見た夢。古い屋敷のような料亭での宴会に出席していた。その宴席に疎外感を感じていた私は、一人で表に出た。その屋敷は町のはずれにあったが、町の中心部でやっている祭りを見物に行こうかと思った。しかし、その方面からぞろぞろと人が帰って来るので、もう祭りは終わったのだなと思った。
屋敷の門からかなり離れたところに人影があり、私に向かって叫んでいる。「お前は、怒っているのになぜ、怒っていると言わないのだ」、そう言って私の方へものすごい勢いで向かってくる。私は、真に恐怖に囚われた。とにかく怖かった。「怒っています」と認めれば、それを言いがかりにして殴りかかられそうだった。「怒ってはいない、全然怒っていない」と叫びながら、必死になって、宴会場の屋敷に逃げ込んだ。
目覚めたとき、心の底から怯えていた余韻がはっきりと残っていた。そうか、私は自分のこの小心さ、臆病さ、それゆえの恐怖心を怒っているのだなと思った。その怒りを抑圧しつつ外部に投影している。とくに父の特定の行為に。この夢が印象的だったのは、いつもは抑圧している心底からの恐怖心を夢の中で逃げながら実感したからだった。
しかし、昨日だったかに、全く気にもとめていかなった夢の中の言葉が気になった。
「お前は、怒っているのになぜ、怒っていると言わないのだ」
「怒ってはいない、全然怒っていない」
このやりとりは、まさに抑圧した怒りとその否認をストレートに表しているではないか。しかも人影(影=ユングのいうシャドウ)が、そう語っている。私は、怒りを抑圧し、それを認めていない。抑圧された怒りという影そのものが、怒って私に攻撃をしかけてきた。
あと時感じた恐怖は、私の小心さを表すと同時に、自分の怒りに直面することの恐怖をも表していたようだ。
この夢は明らかに、合宿直前に見た「2006/08/08 (火) 怒りと恐怖の夢」に呼応しいる。
ところで坐禅の参禅記なるものを発見しました。以下
http://www.geocities.jp/shorinkutu/kyozo/kyozoindex.htm
このページの十楽久則さんの参禅記が面白かったです。ビパッサナー瞑想もそうですが、今、ただ今に気付くことであって、以前対話室でも話題になったありのままに見ることの答えもかいてあります。つまりこれはこれなんだそうです。面白いですよ
ご紹介いただいた参禅記のぞいてみました。
まだ、すべては読んでいませんが、読み終えたら、観想を書きます。
合宿レポートは、少し心身に余裕ができたらまた書き始めると思います。
以下
『コレとは現時点今、見つつあるそれ自体よ。
理屈が無ければ即それ自体よ。
理屈無しとは「素直」と言うことだ。
今、理屈無しに、ただ見る。只、見るばかり、見る者も無い、見らるる物も無い。
満身目じゃ。満身コップじゃ。』
禅は、禅なりによいことろがありますね。
ヴィパッサナー瞑想の実践を踏まえた上で、禅を振り返ると、また別の意味で、新鮮な影響をうけます。
どうもNoboruさん 参禅記の十楽さんの和尚の言葉で
「事実そのものが今であるから、本来の今に目覚めるためには自分の思いを入れず、ただ今の事実だけであれば良い。つまり事実を事実たらしめて行くことが今を今たらしめていることなのだ。本当に今に成って我を忘れて行く修行である。」
つまり禅もビパッサナー瞑想も同じじゃないですか。