《青木宏之氏》
最初に取り上げるのは新体道の創始者・青木宏之氏(あおきひろゆき、1936~)の事例である。彼は、新しい時代の体術を追求して、総合的な人間開発のための体術「新体道」を創始した。一九八五年 「日仏シンポジウム『科学・技術と精神世界』」(於:筑波大学)にて日本武道の代表として演武し、秘技「遠当て」を披露した。これが、その後の気ブームの先駆けとなったとも言われる。彼の体験は以下のようなものである。
『私がそれに気づいたのは、昭和四十二年の十月だったと思います。その時、私は家にいて何かかんがえごとをしていたのですが、ふっと自分の中から相対的な価値観、例えば善なるもの、道徳といわれる好ましいもの、またヒューマニズムとか、愛情とか、ありとあらゆる、そういういわゆる良いもの、善なるものが消えてしまったのです。
今までよりどころしていたものが全部、自分から離れてしまった。その離れていく様が、目で見るごとく、体感できたのです。そして無限の虚無の空間にとり残されてしまった。その時、私はすごい恐れを感じたのです。自分にとっての価値観がなくなるということは大変なことです。それは命よりも大事なものですから、これから一体どうなるのだろうと思ったわけです。
ところが自分自身、全くなんでもない。そういうものがなくなって、今にも自分は倒れて死んでしまうかと思ったけど、ちっとも倒れもせず、息も止まりもせず、一体これはどういうことなのかと思ったわけです。
そしてよくその感じを味わってみると、私のまわりからすべての、好ましい人々から言われて来た価値観、良いものと言われてきたもの、悪いものと思われていたものが全部消えてしまって、ただそこに、あるものがある。あるがままに黒いものは黒い、白いものは白いと。良い悪いはなく、ただそれだけのことだということなのです。ひたすら瞑想して、お祈りして、よいことを考えて、精進して修行するという、そういう素晴らしい瞬間も、またなんとなく酒を飲んでいる時も、トイレにしゃがんでいても、その辺をぶらぶらうろついていても、つまり何をしていても変わりないんだ。ただそれだけなんだと。そういうふうなことをはっきり悟らされるという経験があったんです。
その虚無の空間のことを今では宇宙的大我とか、宇宙的無意識などと言っていますが、自分が置き去りにされたそういう大きな虚無の世界、完全な無の世界、もしそれを0だと言えば、自分もその世界に同化しているのだから私も0です。また、すべてを加えても同化させても限りなく唯一の世界であるというのでそれを一と言えば、自分もそれに同化しているのだから一であるわけです。一と言っても、0といっても同じことですね。それを私は絶対無とか、あるいは完全な一の世界とか言うわけです。
つまり、相対的な世界が消え去ってしまった時、自分がそういう世界にいたということです。それが本物中の本物というか、本当のことだったということに気がついたわけです。
その日からは、いろいろな物事を見ても、また人を見ても、今までとは全く違うふうに見えるようになりました。すべて、あるものがあるがままに見えるようになってきたのです。私の場合、理論的にそうなったのではなく、その時からだで感じた、体感したんです。目で見るごとくと言っていますが、実際に見えたんです。ビジョンというか、幻想みたいな感じで、視覚的にとらえられる形で自分からそういう相対的なものが去っていったのです。そんな経験をしたのです。』(青木宏之『からだは宇宙のメッセージ』地湧社、1985年)
青木氏のこの体験も、D認識からB認識へ変化を物語っている。「その日からは、いろいろな物事を見ても、また人を見ても、今までとは全く違うふうに見えるようになりました。すべて、あるものがあるがままに見えるようになってきたのです」とは、まさにこの劇的な変化を表現するものである。しかもその変化は、一時的な至高体験ではなく、永続的なもののようだ。
また、「私のまわりからすべての、好ましい人々から言われて来た価値観、良いもと言われてきたもの、悪いものと思われていたものが全部消えてしまった」とは、自分の利害関心、育った文化や教育のなかで吸収してきた「価値観」、言語による「分別」、区別・対立による見方(これらも何らかの社会的な価値観を反映する)が超えられたということであろう。すなわち「相対的な世界」、自己の価値観に応じて分類、区別されるD認識の世界が超えられ、不二・平等の世界。「完全な一」、「完全な無」の世界に参入したのだ。
さらに青木氏は、「自分が置き去りにされたそういう大きな虚無の世界、完全な無の世界、もしそれを0だと言えば、自分もその世界に同化しているのだから私も0です」という。この大きな虚無の世界は、「宇宙的大我」とか、「宇宙的無意識」とも表現されるが、自分がそれに同化して0になってしまったというのである。
ここでマスローが示した至高体験の特徴をいくつか振り返ってみよう。マスローによれば、至高体験においては(1)「自己の利害を超越し、対象をあるがままの形で全体的に把握」し、(2)「認識の対象にすっかり没入」してしまい、(3)「認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つ」という。つまり、至高体験においては、通常われわれが保持している「自己」が何らかの形で超えられることが暗示されているのである。青木氏の「私が0になった」という表現は、「自己超越」、「無我」という言葉に示されるような至高体験の特徴に対応している。
最初に取り上げるのは新体道の創始者・青木宏之氏(あおきひろゆき、1936~)の事例である。彼は、新しい時代の体術を追求して、総合的な人間開発のための体術「新体道」を創始した。一九八五年 「日仏シンポジウム『科学・技術と精神世界』」(於:筑波大学)にて日本武道の代表として演武し、秘技「遠当て」を披露した。これが、その後の気ブームの先駆けとなったとも言われる。彼の体験は以下のようなものである。
『私がそれに気づいたのは、昭和四十二年の十月だったと思います。その時、私は家にいて何かかんがえごとをしていたのですが、ふっと自分の中から相対的な価値観、例えば善なるもの、道徳といわれる好ましいもの、またヒューマニズムとか、愛情とか、ありとあらゆる、そういういわゆる良いもの、善なるものが消えてしまったのです。
今までよりどころしていたものが全部、自分から離れてしまった。その離れていく様が、目で見るごとく、体感できたのです。そして無限の虚無の空間にとり残されてしまった。その時、私はすごい恐れを感じたのです。自分にとっての価値観がなくなるということは大変なことです。それは命よりも大事なものですから、これから一体どうなるのだろうと思ったわけです。
ところが自分自身、全くなんでもない。そういうものがなくなって、今にも自分は倒れて死んでしまうかと思ったけど、ちっとも倒れもせず、息も止まりもせず、一体これはどういうことなのかと思ったわけです。
そしてよくその感じを味わってみると、私のまわりからすべての、好ましい人々から言われて来た価値観、良いものと言われてきたもの、悪いものと思われていたものが全部消えてしまって、ただそこに、あるものがある。あるがままに黒いものは黒い、白いものは白いと。良い悪いはなく、ただそれだけのことだということなのです。ひたすら瞑想して、お祈りして、よいことを考えて、精進して修行するという、そういう素晴らしい瞬間も、またなんとなく酒を飲んでいる時も、トイレにしゃがんでいても、その辺をぶらぶらうろついていても、つまり何をしていても変わりないんだ。ただそれだけなんだと。そういうふうなことをはっきり悟らされるという経験があったんです。
その虚無の空間のことを今では宇宙的大我とか、宇宙的無意識などと言っていますが、自分が置き去りにされたそういう大きな虚無の世界、完全な無の世界、もしそれを0だと言えば、自分もその世界に同化しているのだから私も0です。また、すべてを加えても同化させても限りなく唯一の世界であるというのでそれを一と言えば、自分もそれに同化しているのだから一であるわけです。一と言っても、0といっても同じことですね。それを私は絶対無とか、あるいは完全な一の世界とか言うわけです。
つまり、相対的な世界が消え去ってしまった時、自分がそういう世界にいたということです。それが本物中の本物というか、本当のことだったということに気がついたわけです。
その日からは、いろいろな物事を見ても、また人を見ても、今までとは全く違うふうに見えるようになりました。すべて、あるものがあるがままに見えるようになってきたのです。私の場合、理論的にそうなったのではなく、その時からだで感じた、体感したんです。目で見るごとくと言っていますが、実際に見えたんです。ビジョンというか、幻想みたいな感じで、視覚的にとらえられる形で自分からそういう相対的なものが去っていったのです。そんな経験をしたのです。』(青木宏之『からだは宇宙のメッセージ』地湧社、1985年)
青木氏のこの体験も、D認識からB認識へ変化を物語っている。「その日からは、いろいろな物事を見ても、また人を見ても、今までとは全く違うふうに見えるようになりました。すべて、あるものがあるがままに見えるようになってきたのです」とは、まさにこの劇的な変化を表現するものである。しかもその変化は、一時的な至高体験ではなく、永続的なもののようだ。
また、「私のまわりからすべての、好ましい人々から言われて来た価値観、良いもと言われてきたもの、悪いものと思われていたものが全部消えてしまった」とは、自分の利害関心、育った文化や教育のなかで吸収してきた「価値観」、言語による「分別」、区別・対立による見方(これらも何らかの社会的な価値観を反映する)が超えられたということであろう。すなわち「相対的な世界」、自己の価値観に応じて分類、区別されるD認識の世界が超えられ、不二・平等の世界。「完全な一」、「完全な無」の世界に参入したのだ。
さらに青木氏は、「自分が置き去りにされたそういう大きな虚無の世界、完全な無の世界、もしそれを0だと言えば、自分もその世界に同化しているのだから私も0です」という。この大きな虚無の世界は、「宇宙的大我」とか、「宇宙的無意識」とも表現されるが、自分がそれに同化して0になってしまったというのである。
ここでマスローが示した至高体験の特徴をいくつか振り返ってみよう。マスローによれば、至高体験においては(1)「自己の利害を超越し、対象をあるがままの形で全体的に把握」し、(2)「認識の対象にすっかり没入」してしまい、(3)「認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つ」という。つまり、至高体験においては、通常われわれが保持している「自己」が何らかの形で超えられることが暗示されているのである。青木氏の「私が0になった」という表現は、「自己超越」、「無我」という言葉に示されるような至高体験の特徴に対応している。
いいですね あるがまま を あるがまま 観、受け入れる。 忘れないように しょうと思います。
相対的な世界が消え去ってしまった時、「自分が置き去りにされたそういう大きな虚無の世界、完全な無の世界、もしそれを0だと言えば、自分もその世界に同化しているのだから私も0です」という、区別も何もない世界に安住する。そうありたいと思います。