もし人が、言語による「分別」を超越して直接にこの世界に触れうるならば、そこにあるがままの真実の世界が現前する。ことばを離れたこの実在の世界こそが、空の世界である。ことばを離れ、区別・対立を超越した不二・平等の世界、そうした世界の本質が空性と呼ばれる。「ことばの仮構を超越した不壊なるブッダをことばで仮構する人々はみな、ことばの仮構によってそこなわれて如来を見ることがない。」 如来は、この真相(如)を知っているから如来といわれる。以上のような「空」の思想は大乗仏教の根幹をなすといってもよい。
ナーガールジュナのこうした認識は、マスローやフロムの認識とほとんど重なるだろう。そればかりでない。マスローもフロムも、この迷妄や仮構や虚偽をふりおとして、現実をあるがままに見ることは可能だと考えているようだ。フロムによれば、そのためにこそ無意識的なものを意識化すること、つまり意識を拡大することが必要だというのである。フロムにとって意識を拡大するということは、幻想から目覚め真実に触れるということを意味する。すなわちいかなる歪曲もなく、知的・言語的認識(分別知)を介することもなしに、あるがままの実在を直接に把握することを意味する。
フロイトは、その本能論的な見方や神経症の治療という現実的な課題に制約されて、そうした枠組を越える視野を設定することはなかった。しかし、もしフロイトの制約を越えて「無意識の意識化」を、その可能性の究極まで推し進めたらどうか。その時、単に抑圧された感情を自覚化して神経症を癒すといった次元を越えて「意識化」が進み、最終的には常識人が常識人なるがゆえに持つ「虚偽や迷妄の帳(とばり)」をふりはらって直接的にあるがままの実在に触れるという次元にまで拡がっていくだろう。そのとき「意識の拡大」という目標は、禅仏教、さらには大乗仏教が目指す「覚り」という目標に限りなく接近する、というのがフロムの主張である。そして、「あるがままの実在を直接に把握する」認識とは、マスローのいうB認識にも対応するだろう。
以上は、新たに仏教思想との比較という視点も加えてこれまでの考察を再確認した。以下では、こうした考察を踏まえて至高体験と「自己」、さらにはB認識と「自己」との関係を追究したい。もちろん、これまでと同様に事例に即して話を進める。
ナーガールジュナのこうした認識は、マスローやフロムの認識とほとんど重なるだろう。そればかりでない。マスローもフロムも、この迷妄や仮構や虚偽をふりおとして、現実をあるがままに見ることは可能だと考えているようだ。フロムによれば、そのためにこそ無意識的なものを意識化すること、つまり意識を拡大することが必要だというのである。フロムにとって意識を拡大するということは、幻想から目覚め真実に触れるということを意味する。すなわちいかなる歪曲もなく、知的・言語的認識(分別知)を介することもなしに、あるがままの実在を直接に把握することを意味する。
フロイトは、その本能論的な見方や神経症の治療という現実的な課題に制約されて、そうした枠組を越える視野を設定することはなかった。しかし、もしフロイトの制約を越えて「無意識の意識化」を、その可能性の究極まで推し進めたらどうか。その時、単に抑圧された感情を自覚化して神経症を癒すといった次元を越えて「意識化」が進み、最終的には常識人が常識人なるがゆえに持つ「虚偽や迷妄の帳(とばり)」をふりはらって直接的にあるがままの実在に触れるという次元にまで拡がっていくだろう。そのとき「意識の拡大」という目標は、禅仏教、さらには大乗仏教が目指す「覚り」という目標に限りなく接近する、というのがフロムの主張である。そして、「あるがままの実在を直接に把握する」認識とは、マスローのいうB認識にも対応するだろう。
以上は、新たに仏教思想との比較という視点も加えてこれまでの考察を再確認した。以下では、こうした考察を踏まえて至高体験と「自己」、さらにはB認識と「自己」との関係を追究したい。もちろん、これまでと同様に事例に即して話を進める。