私が私であることの根拠は何もない。「自我」は、自らの無根拠性を心の奥底では知っているから、様々な仕方で「自我の支え」を求めるのだろうか。
「自我の支え」が、宗教的な教義であったり、イデオロギーであったりするばあいもあるだろう。ただし日本人の場合、そうした教義や信念が「自我の支え」になっている場合は、比較的少ないのかも知れない。
私は、「日本人」という観念に同一化している部分がかなりあるなと自分で感じる。「日本人」としての劣等感や優越感を自分のなかに感じる。しかし、宗教的な信念やイデオロギーが自分の「支え」になっているという自覚はない。
ある特定の「真理」を正しいものと信じれば、それに反する「教え」は、何らかの仕方で否定される。たとえ、否定の思いが外的に表現されなくとも、すでにそこには小さな「戦い」が生じている。「真理」を確信すればするほど、内面の「戦い」も大きくなる。
しかし、いかなる「信念」を持つこともなしに、人間は生きていけるのだろうか。あるいは、問いをこう変えてもより。覚醒した人は、いかなる「信念」にも囚われることがなくなるのだろうか。
「自我の支え」が、宗教的な教義であったり、イデオロギーであったりするばあいもあるだろう。ただし日本人の場合、そうした教義や信念が「自我の支え」になっている場合は、比較的少ないのかも知れない。
私は、「日本人」という観念に同一化している部分がかなりあるなと自分で感じる。「日本人」としての劣等感や優越感を自分のなかに感じる。しかし、宗教的な信念やイデオロギーが自分の「支え」になっているという自覚はない。
ある特定の「真理」を正しいものと信じれば、それに反する「教え」は、何らかの仕方で否定される。たとえ、否定の思いが外的に表現されなくとも、すでにそこには小さな「戦い」が生じている。「真理」を確信すればするほど、内面の「戦い」も大きくなる。
しかし、いかなる「信念」を持つこともなしに、人間は生きていけるのだろうか。あるいは、問いをこう変えてもより。覚醒した人は、いかなる「信念」にも囚われることがなくなるのだろうか。