瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

浄土宗僧・原青民

2019年07月02日 | 覚醒・至高体験をめぐって
『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は浄土宗僧・原青民の事例である。
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 「悟り」は、座禅修行を積んだ禅僧だけに与えられるものではない。
 
以下に挙げるのは、原青民という浄土宗の僧侶の体験である。彼は、肺病にかかり、かかりつけの医者にあと五年しか生きられないといわれ、非常に悩んだという。そのうち弁栄聖者に出会い、その感化で毎日のように念仏を唱えるようになったという。
 
 ある晩、一心に念仏を申しながら自分と自分を取り巻いている万物との関係を考えていました。ところが念仏を唱えているうちに突然なにもなくなってしまいました。自分のたたいている木魚の音も聞こえません。周囲の壁もなければ、天井も、畳もありません。
 すきとおった明るみもありません。色も見えなければ、重くも、軽くもありません。自分のからだすらありません。  まったく無一物になってしまって、ただあるのはハッキリ、ハッキリだけになりました。はっきりした意識だけがあった、意識内容はまったくなくなってしまったわけです。
 しかししばらくして平常の自分にもどり、その晩はそれで寝てしまいました。ところが翌朝目がさめて、庭から外を見ていると、変で変でしかたがありません。きのうまではいっさいのものが自分の外に見えていたものが、けさは自分の中に見えています。それはつぎの日もかわりませんでした。
(佐藤幸治『禅のすすめ (講談社現代新書 27) 』 )
 
 この体験によって彼は、「いっさいが自分の心であり、いっさいの活動が自分の心の働きであることがわかってきて」、ほんとうの安心を得ることができたという。
 宗教的な覚醒体験や悟り体験を特徴づけるのもやはり、これらの例から分かるように「自己」という壁が打ち破られる事実であろう。自己の壁が打ち破られるとは、自己が自己の根源(真の自己)に徹することでもある。自己が真の自己に徹するとき、すべてが自己となり、「万物と我と一体、宇宙と我と不二」という世界が出現するのである。
 
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