瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

思考を突き放して「見る」

2010年01月18日 | 断食・少食
◆今回の一日半断食も順調だ。職場では、紅茶二杯と、コーヒーに豆乳を入れて三杯。豆乳の量は、合わせてカップ一杯分ぐらいか。夕食時に野菜スープの汁だけ二杯。一日で300キロカロリーくらい摂取したと思う。そのせいか、ほとんど空腹感はない。これぐらいだといつでも気軽にできる感じだ。一週間に一回のペースを保っていきたい。

今日は、空腹感を感じてのサティはほとんど行う必要がなかったが、思考への気づきは多かった。日常の中でとりとめもなく繰り広げられる思考に気づくことは、それを相対化して突き放して「見る」ということだ。思考に埋没しているかぎり、思考する自我から自由になれない。思考に気づけば気づくほど、思考する自我から解き放たれていくのだろう。

◆再び『臨死体験・気功・瞑想』>「瞑想世界の旅」>ヴィパッサナー瞑想を生活により。

「心が執着することからも拒否することからも自由なときには、怒りを怒りとして、欲求を欲求として見ることができる。「見る」や否や、心のプロセスは「見ること」に関心を奪われ、その瞬間に怒りは自然な死を遂げる。この見るということ、すなわち洞察は、般若と呼ばれ、練習したり訓練したりすることもできない内発的な気づきとして生じる。この気づきは、人生に新しい洞察をもたらす。行動の際の新しい明晰性、新しい内発性をもたらすのだ。 それゆえ瞑想は、人生とその日々の浮き沈みとから切り離すことができない。この日常世界の中で平和を経験したいなら、怒りや欲求や無知をそれらが起こるがままに見、理解し、扱う必要がある。」

「その瞬間に怒りは自然な死を遂げる」ほどの深い洞察が、かんたんにできるとは思わない。しかし、感情や思考といった様々な心の動きを「見る」とき、それらを、根拠のないはかなく消えるほかない泡沫のようなものと感じとることは難しくない。自我が、突き詰めれば何の根拠も土台もない、もろい「壁」である以上、自我に根ざした思考や感情もまた、その本質は、壁に描かれた「落書き」にすぎない。

コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 書くことで修行モードに | トップ | 断食と夢 »
最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
思考 ()
2010-02-07 22:49:58
突然 書き込みして すいません。 私は 難しい事は分かりませんが 色々な感情や思考を何度も繰り返し見る事は とてもいいと思います。 思考に気付くのが多くなると 今を見つめる事が出来るようになるのでは‥?! 今 が見れるようになれば いつも新鮮に相手に接したり 考えたり出来るのでは ないでしょうか‥?!
返信する
Unknown (Noboru)
2010-02-13 16:31:16
周さん、書き込みありがとうございます。

お返事遅れてごめんなさい。

お言葉のように、日常生活の中での思考や感情への気づきを忘れないよう、心を新たにしたく思います。

人と真に接するためにも。
返信する
ありがとうございます、 ()
2010-02-16 01:21:55
コメントに返事をもらい嬉しいです。 突然ですが 私の体験を ただの一人言と思って聞いてもらえませんか?私は 三十代の ごく普通の会社員です。 私が 覚醒体験をした と言っても信じてもらえないかも しれませんが 軽い気持ちで見てください。 私は 二十歳ぐらいから師に瞑想を教えてもらいながらも その頃は まったく理解出来ず時間だけが経っていきました‥。 今の会社に入って 仕事にも人間関係にも悩み疲れ そこから逃げたい一心で瞑想を徐々にするようになりました。 毎日のストレスで後頭部を殴られているような頭痛から解放されようと瞑想し 自分を見つめ 約三年がたった ある日 それは突然来ました。 仕事から帰ってきて 部屋でテレビも付けず 疲れからか寝転がりボーっとしていた時 突然 胸の中から何かが体 全体に広がるのを感じました。その時私の感覚では 黒い煙のような物が体に広がり体の中が空っぽになった感じでした。 はじめは得体の知れない何かに支配される恐怖を感じでしたが それが広がるにつれ (これがそうなんだ‥私が求めていたものなんだ‥) と確信しました。 その後 私は 笑いはじめました。 とにかく面白くて馬鹿馬鹿しくて笑い続けました。
返信する
続きです。 ()
2010-02-16 01:29:25
笑いが収まると 外に出て夜空を見ました。 ただボーっと見続けていました。ボーっと と言っても頭はスッキリしていて 風が心地よく暗い夜空と私は繋がっていました。 おそらく どんな言葉でも表現出来ない感覚に包まれていました、 そして私は (覚醒した!) とその時は実感しました‥ その後は見る物すべてが すばらしく すべてが理に叶った存在なんだと思えました。 そして私は 師に 「やりました!覚醒しました!」 と報告すると師は 「そうですか。」 の一言‥ 山ほど話したい事が あったし すごく喜んでくれると思っていた私は 肩すかし をされたような感じでした‥ その頃の私は 覚醒がすべて であり終着点だと思っていて どんどん天狗になって すべて理解出来て 間違いなどしない と思うようになっていました。 確かに その感覚から 言えば間違いなどない訳ですが 現実には合わせる事が必要で 馬鹿馬鹿しい事も 合わせて話を聞いたり うまくコミュニケーションを取ることをしないと どんどん孤立する事を知りました。 そして師に 「覚醒(その感覚)を知った時が始まりであり、そこからもっともっと深める事により今より何十倍の幸福感を得ることが出来るでしょう。」 と言われ
返信する
続きです、 ()
2010-02-16 01:41:39
と言われ まだ 悟り の入り口を入ったにすぎない事を痛感させられました。 人間で例えるならば 産まれ立ての赤ちゃん と言った所でしょうか。 今、覚醒を感じてから6年が経ちました‥瞑想をして日々の生活の中で思考に気付き一瞬一瞬を大切に、を繰り返し ようやく 落ち着いて来た気がします。 長々と書いてしまって すいませんね。 ただ 聞いてもらいたかっただけなんですけど、こうして理解を求めること自体 まだまだ本当の意味での、悟り は遠い気がします‥ これからも深めて行こうと思っています。
返信する
大切な体験 (Noboru)
2010-02-16 20:35:37
大切な体験を聞かせていただき、ありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。

ちょうど新井氏の「至高体験」をアップしたばかりでしたので、激しい頭痛や仕事上の人間関係に悩まされ、そのぎりぎりのところで開かれていく様子が、新井氏のレンギョウの花を見たときの体験と、響き合うような感じで読ませていただきました。

それから、覚醒体験は、産まれたばかりの赤ちゃんのようなもので、「瞑想をして日々の生活の中で思考に気付き一瞬一瞬を大切に、を繰り返し ようやく 落ち着いて来た」というところ、無限に深めていく道なのだというところが、印象に残りました。

聞かせていたただき、本当にありがとうございました。
返信する
ありがとうごさいます。 ()
2010-02-18 14:39:22
私の 一人よがりな話を聞いていただき ありがとうごさいました、 これからも 深めていきたいと思います。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

断食・少食」カテゴリの最新記事