◆今回の一日半断食も順調だ。職場では、紅茶二杯と、コーヒーに豆乳を入れて三杯。豆乳の量は、合わせてカップ一杯分ぐらいか。夕食時に野菜スープの汁だけ二杯。一日で300キロカロリーくらい摂取したと思う。そのせいか、ほとんど空腹感はない。これぐらいだといつでも気軽にできる感じだ。一週間に一回のペースを保っていきたい。
今日は、空腹感を感じてのサティはほとんど行う必要がなかったが、思考への気づきは多かった。日常の中でとりとめもなく繰り広げられる思考に気づくことは、それを相対化して突き放して「見る」ということだ。思考に埋没しているかぎり、思考する自我から自由になれない。思考に気づけば気づくほど、思考する自我から解き放たれていくのだろう。
◆再び『臨死体験・気功・瞑想』>「瞑想世界の旅」>ヴィパッサナー瞑想を生活により。
「心が執着することからも拒否することからも自由なときには、怒りを怒りとして、欲求を欲求として見ることができる。「見る」や否や、心のプロセスは「見ること」に関心を奪われ、その瞬間に怒りは自然な死を遂げる。この見るということ、すなわち洞察は、般若と呼ばれ、練習したり訓練したりすることもできない内発的な気づきとして生じる。この気づきは、人生に新しい洞察をもたらす。行動の際の新しい明晰性、新しい内発性をもたらすのだ。 それゆえ瞑想は、人生とその日々の浮き沈みとから切り離すことができない。この日常世界の中で平和を経験したいなら、怒りや欲求や無知をそれらが起こるがままに見、理解し、扱う必要がある。」
「その瞬間に怒りは自然な死を遂げる」ほどの深い洞察が、かんたんにできるとは思わない。しかし、感情や思考といった様々な心の動きを「見る」とき、それらを、根拠のないはかなく消えるほかない泡沫のようなものと感じとることは難しくない。自我が、突き詰めれば何の根拠も土台もない、もろい「壁」である以上、自我に根ざした思考や感情もまた、その本質は、壁に描かれた「落書き」にすぎない。
今日は、空腹感を感じてのサティはほとんど行う必要がなかったが、思考への気づきは多かった。日常の中でとりとめもなく繰り広げられる思考に気づくことは、それを相対化して突き放して「見る」ということだ。思考に埋没しているかぎり、思考する自我から自由になれない。思考に気づけば気づくほど、思考する自我から解き放たれていくのだろう。
◆再び『臨死体験・気功・瞑想』>「瞑想世界の旅」>ヴィパッサナー瞑想を生活により。
「心が執着することからも拒否することからも自由なときには、怒りを怒りとして、欲求を欲求として見ることができる。「見る」や否や、心のプロセスは「見ること」に関心を奪われ、その瞬間に怒りは自然な死を遂げる。この見るということ、すなわち洞察は、般若と呼ばれ、練習したり訓練したりすることもできない内発的な気づきとして生じる。この気づきは、人生に新しい洞察をもたらす。行動の際の新しい明晰性、新しい内発性をもたらすのだ。 それゆえ瞑想は、人生とその日々の浮き沈みとから切り離すことができない。この日常世界の中で平和を経験したいなら、怒りや欲求や無知をそれらが起こるがままに見、理解し、扱う必要がある。」
「その瞬間に怒りは自然な死を遂げる」ほどの深い洞察が、かんたんにできるとは思わない。しかし、感情や思考といった様々な心の動きを「見る」とき、それらを、根拠のないはかなく消えるほかない泡沫のようなものと感じとることは難しくない。自我が、突き詰めれば何の根拠も土台もない、もろい「壁」である以上、自我に根ざした思考や感情もまた、その本質は、壁に描かれた「落書き」にすぎない。
ちょうど新井氏の「至高体験」をアップしたばかりでしたので、激しい頭痛や仕事上の人間関係に悩まされ、そのぎりぎりのところで開かれていく様子が、新井氏のレンギョウの花を見たときの体験と、響き合うような感じで読ませていただきました。
それから、覚醒体験は、産まれたばかりの赤ちゃんのようなもので、「瞑想をして日々の生活の中で思考に気付き一瞬一瞬を大切に、を繰り返し ようやく 落ち着いて来た」というところ、無限に深めていく道なのだというところが、印象に残りました。
聞かせていたただき、本当にありがとうございました。
お返事遅れてごめんなさい。
お言葉のように、日常生活の中での思考や感情への気づきを忘れないよう、心を新たにしたく思います。
人と真に接するためにも。