おそらく、このダイアリーで輪廻の問題を追ったことがひとつのきっかけとなって、談話室でも輪廻についてのやりとりが続いた。私自身は、最近、輪廻の問題への関心が薄れてきたようだ。それはたんに他に関心が移ってしまったからという一面もあるだろう。
私は、もともとは「縁起説と輪廻説はどのように両立するのか」という知的な関心から出発した。あるいは、仏教が、その成立時からそのような問題をかかえ、その後の仏教はこの問題をひとつの軸にして展開した一面がある。それがどのように論じられたのかという関心だった。仏教そのものへの関心から生まれた問いだったかも知れない。
一方、この問いへの関心の根底には、限りあるいのちとして投げ出された「不思議」への感覚が横たわっているかも知れない。自分の過去生を知りたいというような気持ちはほとんどまったくない。しかし「魂の成長」に輪廻が前提となっているのかどうか、という関心はある。またいつ何をきっかけ関心がよみがえるか分からない。あるいは、次に唯識関係の本を読むことでよみがえるかも知れない。
私は、もともとは「縁起説と輪廻説はどのように両立するのか」という知的な関心から出発した。あるいは、仏教が、その成立時からそのような問題をかかえ、その後の仏教はこの問題をひとつの軸にして展開した一面がある。それがどのように論じられたのかという関心だった。仏教そのものへの関心から生まれた問いだったかも知れない。
一方、この問いへの関心の根底には、限りあるいのちとして投げ出された「不思議」への感覚が横たわっているかも知れない。自分の過去生を知りたいというような気持ちはほとんどまったくない。しかし「魂の成長」に輪廻が前提となっているのかどうか、という関心はある。またいつ何をきっかけ関心がよみがえるか分からない。あるいは、次に唯識関係の本を読むことでよみがえるかも知れない。