◆最近、掲示板:臨死体験・気功・瞑想で何人かの人が投稿をして下さり、動きが活発になっている。私自身、それらを読んだり、書き込みをしたりしながら、深いところでかなり影響を受けている。
◆数年前、このブログでガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている』から、その言葉を書き出し、それについて感じたことを書いていた。かなり長くやっていた。ところが、この本についてはなぜかまともなレビューを書いていなかった。それで『精神世界と心理学・読書の旅』の方にレビューをまとめた。
そのとき、かつてブログに抜き出した彼女の言葉を一度、二度と読み返し、あらためて影響を受けた。もういちど本全体を読み返したいと思った。できれば何度も読み返したいと思った。さっそく元の英文の本も注文した。
今回読み返した彼女の言葉の中から一つだけ再録する。本のタイトルの意味にもつながる言葉だ。
「もしもあなたにこうした感情の重なりを最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。この深淵は、無、空虚、無名と理性が認識するものです。これは非常に重要な瞬間です。なぜなら、完全に何ものでもなく、誰でもないことを進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験、すなわちあなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。いったんその防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。この対峙こそ真実の自己探求によってもたらせれる啓示であり、それによってあなたの心の真ん中にずっと隠されていた真実という秘密の宝石が露にされます。見つかったダイヤモンド、それはあなたです。」
これは、最近の私にとってとくに意味深い。このブログ(7月10日「さざなみのような心の反応」とその前後)にも書いたが、このころ瞑想や日常のサティで、思考に伴う感情や、その思考の性格などにサティを向ける心随観を中心にするようになり、瞑想が深まった時期があった。この日のブログに、「思考やそれに伴う感情の動きに心随観していると、自我の一瞬一瞬の働きにとても敏感になっていく。と同時に、全体としての自我のとらわれの傾向にも気づきが深まっていく」と書いている。心随観を徹底することは「感情の重なり」を奥へ奥へと分け入っていくことであった。
現在は、瞑想やサティをさぼりぎみなのだが、このガンガジの言葉が、あの7月ごろの体験が重なり、強く印象に残った。サティを、そして心随観をもっと徹底させようと思った。
◆数年前、このブログでガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている』から、その言葉を書き出し、それについて感じたことを書いていた。かなり長くやっていた。ところが、この本についてはなぜかまともなレビューを書いていなかった。それで『精神世界と心理学・読書の旅』の方にレビューをまとめた。
そのとき、かつてブログに抜き出した彼女の言葉を一度、二度と読み返し、あらためて影響を受けた。もういちど本全体を読み返したいと思った。できれば何度も読み返したいと思った。さっそく元の英文の本も注文した。
今回読み返した彼女の言葉の中から一つだけ再録する。本のタイトルの意味にもつながる言葉だ。
「もしもあなたにこうした感情の重なりを最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。この深淵は、無、空虚、無名と理性が認識するものです。これは非常に重要な瞬間です。なぜなら、完全に何ものでもなく、誰でもないことを進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験、すなわちあなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。いったんその防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。この対峙こそ真実の自己探求によってもたらせれる啓示であり、それによってあなたの心の真ん中にずっと隠されていた真実という秘密の宝石が露にされます。見つかったダイヤモンド、それはあなたです。」
これは、最近の私にとってとくに意味深い。このブログ(7月10日「さざなみのような心の反応」とその前後)にも書いたが、このころ瞑想や日常のサティで、思考に伴う感情や、その思考の性格などにサティを向ける心随観を中心にするようになり、瞑想が深まった時期があった。この日のブログに、「思考やそれに伴う感情の動きに心随観していると、自我の一瞬一瞬の働きにとても敏感になっていく。と同時に、全体としての自我のとらわれの傾向にも気づきが深まっていく」と書いている。心随観を徹底することは「感情の重なり」を奥へ奥へと分け入っていくことであった。
現在は、瞑想やサティをさぼりぎみなのだが、このガンガジの言葉が、あの7月ごろの体験が重なり、強く印象に残った。サティを、そして心随観をもっと徹底させようと思った。
お互いに励みになるということは、道を求めるものにとって、素晴らしいことですね。
しゅうさんが、幸せでありますように。
悟りの光がもたらされますように。
素直に あぁ‥ 疲れているな‥ と 観れば楽なんですね。
面倒くさい時は 面倒くさい と 観れば いぃ‥
素直な気持ちを ただ 観てみます
うすら覚えですいません
捨て去るのは 難しいですよね Noboruさんの言うように 私は 観ることにより 楽 になる という成果を求めて 観ているような気がしますね‥ この意識が 無くなれば‥ あるいは 観ることに疲れ切って始めて悟のかも‥?! あるいは 悟る事すら捨て去る‥
どこまでも続きそうな‥ あまりに難しく考え過ぎなのかな‥? もっと単純なのかも‥ 真我は いつも在る し 肉体も在る。 真我が 「0」 だとして 肉体が 「1」 にすると 私は 「01」 と表現出来ます?! なんとなく考えるだけだと 理解した気分になるけど 理解だけじゃ‥ う~ん 難しい
そうなのかもしれません。たぶん観るという努力をしているうちは、そこに自我の努力、何らかの成果への自我の狙いがあるんでしょうね。
努力したり、無理したりせずにただ観ている、言葉でいうのはかんたんだけど、それが出来たら苦労はしない(笑い)
私も、努力したり、無理したり、いつもやっています。そういう自分にすら気づいて、ただ観る。でもそれもまた努力になる。さらに、そういう自分を観る。無限後退‥‥‥?
もしかしたら、そういう努力や無理に疲れ果てて、その果てに何がが起るのかも知れませんが‥‥。
次に 仕事上の悩み‥
たわいも無い会話の中の 苛立ち‥
簡単に考えただけでも 三重 四重の感情があります。 何度も 感情を観て行くうちに 一つ 一つ 少なくなって 深淵に 辿り着く。 そして また浮かんでくる感情を観て の 繰り返し‥ 出てくる感情との モグラ叩き みたいな感じで‥
続けて 分かった事は 今までより楽になったけど
どこか無理している‥
多分 観る事すら捨て去る‥?!
どこかの お坊さんの言葉
捨て去る事すら 捨て去りなさい。
簡単な事では無いですけど、少し試してみようと思っています。