瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

自分の物語に気づく

2007年09月25日 | 瞑想日記
最近、読んだ本の再読が何冊か続いている。ガンガジの後は、ラマナ・マハルシの『あるがままに』を読んでいる。ガンガジは、ラマナ・マハルシのいわゆる孫弟子にあたる。ガンガジの言葉とラマナ・マハルシの言葉が響き合うようにして私の心の中に入ってくる。しばらくはガンガジとの対話が続くが。

「‥‥あなたはあなたの人生という夢の途中で目を覚ますことができます。どんな物語もいずれは終わりますが、あなたの物語が終わる前に目を覚ますのです。」p88

「もしあなたが、自分がどんな物語をもっているかに気づくことができたなら、その物語は無意識ではなく意識的なものになります。あなたはそれがどんな物語であるかを知り、あたかもそれが現実であるかのようにその物語に従うのを止めることを選べるのです。」p89

「あなたという存在の真の姿は物語ではありません。真実は、どんな物語よりも大きく、そして近いところにあります。」p89

自分の物語に気づくにはどうすればよいのか。途方に暮れる人も多いだろう。物語に気づくひとつの優れた方法は、ヴィパッサナー瞑想のサティであることは間違いない。一瞬一瞬の思考にサティすること、気づいていくということ、それは自分が作り出す大小の物語に気づくということでもある。

サティの修行そのものが、またひとつの物語になることもある。「私はこれだけ徹底してサティを続けた。そしてこんなに進歩した」等々。しかし、サティの修行の優れたところは、その物語にもまたサティし、気づいていくことができるということだ。物語にのめりこまず、無限に後退しつつ、気づき続けるのがヴィパッサナー瞑想だ。

合宿で集中的に瞑想しているとき、無意識に物語にのめり込んでいればいるほど、サティが続かないという経験がいやというほどあった。しかしそれでも続けていると、自分の無意識の物語に気づくときが来る。そうするとクリアなサティが続くようになる。ヴィパッサナー瞑想は、ごまかしのきかない瞑想だということがつくづくと分かった。

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4 コメント

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もうひとつのサティ (suho)
2007-09-26 12:23:35
>自分の物語に気づくにはどうすればよいのか。途方に暮れる人も多いだろう。物語に気づくひとつの優れた方法は、ヴィパッサナー瞑想のサティであることは間違いない。一瞬一瞬の思考にサティすること、気づいていくということ、それは自分が作り出す大小の物語に気づくということでもある。

そうですね。ヴィパッサナー瞑想は確かし優れた訓練法だと感じます。
僕も過去に数ヶ月間、独学でやってみたことがあるのですが、確かに意識が敏感になり、気づきの質が高まりました。
ただ僕の場合、いちいち「言葉」でラベリングするのが億劫になってきて「気づいたらおしまい」といった感覚でやっていました(これは今でもそうですが…)

邪道のご提案です(笑
起きている現象は全て「物語り」とみる眼差しです。
ひとつひつとの部分的な現象にサティをいれてゆくのではなく、いま目前で全的に生じている「現象すべてを物語り」として見続ける一括サティです(笑
僕は部分にフォーカスするのが面倒なので
こうしています。
あまり参考になりませんね…
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それも大切ですね (Noboru)
2007-09-26 22:46:05
もちろんラベリングなしでサティしていくというものありです。初心者には、ラベリングは気づきを定着させる優れた方法だとは思いますが。また心随観にとってラベリングは本質的な意味をもっています。

ヴィパッサナー瞑想は、ある意味で極微の時間にまでサティを精密化する方向への修行です。そこで始めて思考が立ち上がる以前の感覚世界が見えてくるといいます。

現象を全体として「物語」として見る視点は大切だと思います。私も、自分の人生に付与する物語を、これは自分の思考が生み出した、はかなく消える「物語」に過ぎないということを、そのつどできるかぎり確認するようにしています。
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ありがとうございます (suho)
2007-09-26 23:47:57
>ヴィパッサナー瞑想は、ある意味で極微の時間にまでサティを精密化する方向への修行です。そこで始めて思考が立ち上がる以前の感覚世界が見えてくるといいます。

なるほどです。
今起きている現象全体を「物語」として気づいてるつもりでも、気づきの質が低ければ「今起きている現象は物語である」という思考にサティをいれていない可能性が十分あるなぁと感じました。
初心へ帰り、サティの質を高めたいと思いました。
ありがとうございます。


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物語が生み出される現場 (Noboru)
2007-09-29 12:59:35
そうですね。一方でサティの精度を極限にまで高めていく方向の修行は必要なのだと思います。自我を中心にしてまとまりのある知覚が形成される以前の、生の感覚に触れると、知覚を形成していた自我そのものも解体する経験をするといいます。

そこまで行かないにしても、物語を生み出す一瞬一瞬の現場にサティを入れていくことは必要なのだと思っています。

修行そのもが自我を満足させる「物語」になってしまうことはあるけれど、サティを厳密に行っていく限り、物語が生み出される現場、あるいはその直前にサティが入り、気づかれていくと思います。
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