「自我」はふつう、たとえ無自覚であろうと様々な劣等感にさいなまれており、それを補償するために自分にとってもっとも重要な「自我の支え」を持つことになる。「自我の支え」が何であるかは千差万別だろう。
私の場合、中学生の頃から「何のために生きるのか」という問いが心のなかで大きな位置を占めるようになった。そして、そのような問いに「悩む」自分という自己像が「自我の支え」にもなっていたようだ。その頃はもちろん自覚していなかったが、それはいくつかの劣等感を強烈に補償するのもであったろう。思春期の私の自意識は、そのような問いを悩まない「凡人」と自分とを区別して、優越感を感じていた。
その頃と形は変わっても、私のなかにはまだかなり強く「求道者」としての自分に「自我の支え」を見出す傾向があるようだ。
「自我の支え」が何であれ、たとえ周囲から見て何故と思えるようなものでも、本人にとってはそれが「支え」になっているのだから、それを守るためには必死になるだろう。そこがいちばん死角になりやすい、気づきにくいということだ。
子供に接するときにも、彼の「自我の支え」が何なのかを理解しておくことはきわめて重要だ。大人から見てどんなに下らないと思えても、本人にとってはそれで「自我」がかりそめにも安定するのだから。
子供であれ、大人であれ、何らかの仕方で人に「自我の支え」を否定されたり攻撃されたりすれば、必死に反撃することになるだろう。他の「自我の支え」を見出すか、もはや「自我の支え」を必要としないほどに成長しない限り、人はそれに執着し続ける。
「自我の支え」が教義宗教であったり、イデオロギーであったりする場合は多いにある。それらへの執着が、歴史的にも、現在でも、様々な問題を引き起こしていることは、様々な人が指摘している通りだ。
私の場合、中学生の頃から「何のために生きるのか」という問いが心のなかで大きな位置を占めるようになった。そして、そのような問いに「悩む」自分という自己像が「自我の支え」にもなっていたようだ。その頃はもちろん自覚していなかったが、それはいくつかの劣等感を強烈に補償するのもであったろう。思春期の私の自意識は、そのような問いを悩まない「凡人」と自分とを区別して、優越感を感じていた。
その頃と形は変わっても、私のなかにはまだかなり強く「求道者」としての自分に「自我の支え」を見出す傾向があるようだ。
「自我の支え」が何であれ、たとえ周囲から見て何故と思えるようなものでも、本人にとってはそれが「支え」になっているのだから、それを守るためには必死になるだろう。そこがいちばん死角になりやすい、気づきにくいということだ。
子供に接するときにも、彼の「自我の支え」が何なのかを理解しておくことはきわめて重要だ。大人から見てどんなに下らないと思えても、本人にとってはそれで「自我」がかりそめにも安定するのだから。
子供であれ、大人であれ、何らかの仕方で人に「自我の支え」を否定されたり攻撃されたりすれば、必死に反撃することになるだろう。他の「自我の支え」を見出すか、もはや「自我の支え」を必要としないほどに成長しない限り、人はそれに執着し続ける。
「自我の支え」が教義宗教であったり、イデオロギーであったりする場合は多いにある。それらへの執着が、歴史的にも、現在でも、様々な問題を引き起こしていることは、様々な人が指摘している通りだ。