瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

私という磁場

2005年02月08日 | 瞑想日記
◆ラマナ・マハリシの言葉
読書日誌:エポケーの方にラマナ・マハリシの次の言葉を抜書きした。

自己は「私」という思いが絶対にないところにあるものである。それは「沈黙」と呼ばれている。自己そのものが世界であり、自己そのものが「私」である。すべてはシヴァであり、自己である。(28)

この言葉などに刺激されて次のように思った。

覚りがあるとすれば、「私」というこの意識、この主体の上において他ない。いまここで経験しているこの意識、すべての経験の中心となるこの主体。しかし、この意識=経験の主体を「私」という強いレンズで歪曲しているかぎり、覚りはない。「私」によって歪曲されない意識は、純粋意識といわれる。もともと、今「私」が自覚しているこの意識は、純粋意識であるはずなのだ。

「私」という強力なイリュージョンによってこの意識場をゆがめなければ、「私」が投影したイリュージョンも消え去り、純粋な意識場だけが残る。では、純粋な意識場とは何なのか。おそらくそれは、脳の中に宿った一機能を超えているはずだ。純粋な意識場は、脳の一部に還元できるような、たとえば歪みのないスクリーンのようなものでは、断じてない。

この意識場から「私」という幻影、幻影でありながら強力な磁場として働くものを取り去ることは、実はかんたんなのかもしれない。私たちはただ、そのちょっとした秘訣を知らないだけなのかも知れない。
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