◆心の散乱をもあるがままに
数日前に、地橋先生の『ブッダのヴィパッサナー瞑想法「基本マニュアル」増補・新版』や『瞬間の言葉』のレビューをAmazonに書いたが、その中には「起きたことを起きたこととして、あるがままに確認するのがヴィパッサナー瞑想だ」とか、「集中すべき対象から心が飛んでいっても、その事実をそのまま直視する方向も重視する。集中が高まるなら高まる、散乱するなら散乱する、どちらも自然にしてあるがままに起きた現象なら、それを確認しようとするのがヴィパッサナー瞑想なのだ」という言葉を入れている。私自身が、ヴィパッサナー瞑想の素晴らしいところだと思うからこそ、こういう言葉を強調したくなる。
しかし、いざ実際の瞑想のなかで自分の反応を確認していると、集中も散乱も同様にあるがままにサティしているとは言い難い。散乱すると「あっ、また散乱した」と必ず否定的な反応をしているのが、今朝の瞑想でもよく分かった。たとえ微かであろうと否定的な反応をしていて、完全にニュートラルにはできていない。否定的な反応をしてしまっている気持ちの動きにも確実にサティをしていきたい。
◆心が思考に飛ぶ一瞬のプロセス
今朝の瞑想は、かなり思考が多かった。最初の思考でサティが入らず、二つ目、三つ目でサティが入る。そんな場合は、最初の思考が何であったか覚えていない場合が多い。覚えていず、気づいていないからこそサティが入らない訳だが。
腹への集中から思考へと飛ぶそのプロセスをよく見たいと思うのだが、これも意外と難しい。そのプロセスにサティが入れば思考まで行かない訳で、サティが入らないからこそ思考へ行ってしまう。そしてそのプロセスについては、自覚していないからはっきりしない。そんな場合が多い。
思考へと心が散乱していく一瞬のプロセスを、否定的な反応を伴わずによく観察すること。思わず否定的な反応が出ても、それはそれで淡々とサティをすること。
数日前に、地橋先生の『ブッダのヴィパッサナー瞑想法「基本マニュアル」増補・新版』や『瞬間の言葉』のレビューをAmazonに書いたが、その中には「起きたことを起きたこととして、あるがままに確認するのがヴィパッサナー瞑想だ」とか、「集中すべき対象から心が飛んでいっても、その事実をそのまま直視する方向も重視する。集中が高まるなら高まる、散乱するなら散乱する、どちらも自然にしてあるがままに起きた現象なら、それを確認しようとするのがヴィパッサナー瞑想なのだ」という言葉を入れている。私自身が、ヴィパッサナー瞑想の素晴らしいところだと思うからこそ、こういう言葉を強調したくなる。
しかし、いざ実際の瞑想のなかで自分の反応を確認していると、集中も散乱も同様にあるがままにサティしているとは言い難い。散乱すると「あっ、また散乱した」と必ず否定的な反応をしているのが、今朝の瞑想でもよく分かった。たとえ微かであろうと否定的な反応をしていて、完全にニュートラルにはできていない。否定的な反応をしてしまっている気持ちの動きにも確実にサティをしていきたい。
◆心が思考に飛ぶ一瞬のプロセス
今朝の瞑想は、かなり思考が多かった。最初の思考でサティが入らず、二つ目、三つ目でサティが入る。そんな場合は、最初の思考が何であったか覚えていない場合が多い。覚えていず、気づいていないからこそサティが入らない訳だが。
腹への集中から思考へと飛ぶそのプロセスをよく見たいと思うのだが、これも意外と難しい。そのプロセスにサティが入れば思考まで行かない訳で、サティが入らないからこそ思考へ行ってしまう。そしてそのプロセスについては、自覚していないからはっきりしない。そんな場合が多い。
思考へと心が散乱していく一瞬のプロセスを、否定的な反応を伴わずによく観察すること。思わず否定的な反応が出ても、それはそれで淡々とサティをすること。