瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

生活の中のサティを再び

2007年09月23日 | 瞑想日記
朝の瞑想中、いつもより意識して徹底したことがあった。腹の膨らみとゆるみに集中するが、周囲の音に意識が向かったら「音」、思考が浮かんだら「思考」などとそのつどラベリングし、また腹の動きに帰る。これはいつもと変らない。

しかし少しラベリングの言葉の音節が長い場合に、いつも気になることがあった。たとえば「感情」「イメージ」等とラベリングする場合だ。「イメージ」とラベリングしている間に意識は、腹の動きに戻っていたり、他の刺激が飛び込んでいたりする。意識の変化にラベリングが追いつかないのだ。そんなときは、音なら「オ」、思考なら「シ」、イメージなら「イ」などと、最初の音節だけで省略し、次のラベリングに移る。これまでも時々やっていた方法だが、今日はそれを徹底してやってみた。するとラベリングがきめ細かくなって、変化していく知覚対象への一瞬一瞬の集中が増したように感じた。

最初の音節によるラベリングは、瞑想のあともかなり続けた。とくに車椅子の父を押して家に戻るときなども、いつもよりサティが徹底した。これを機会に、これまで低調だった生活の中のサティが復活すればと願った。

ラベリングを最初の音節で済ませてやろうとしたのは、ある文章を読んだことがきっかけなっていた。必要があってサイト『臨死体験・気功・瞑想』の昔の掲示板を読み直していた。その中で2000/09/07のSさんの書き込みにこんなのがあった。これが刺激になったのだ。

『マハーシ方式では、精神内界で起こる様々な心の働きを、「思考」「感情」「イメージ」などと瞬時に分類して、ラベリングをします。眼耳鼻舌心意ぜんぶの知覚にラベリングしますが。

最適なラベルを瞬時に選ぶ必要から、集中力を保ちやすいという利点があるようです。 高速で「念」が入るようになると、ラベリングが間に合わないので、 気付きだけにするんですね。 生滅する思考に次々と「触れる」だけ・・・って感じでしょうか。 ぼくも、今、現在の課題なのですが、「観ている意識」を、日常生活でいかに保つか・・・ということです。 ひたすら訓練しかないようですけどね!! 』

このSさんとの掲示板でのやりとりがひとつのきっかけとなって2001年から私も本格的にヴィパッサナー瞑想をはじめたのである。今日は「集中力を保ちやすい」というところが刺激となったようだ。

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8 コメント

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結局は菩提心 (くしゃとりあ)
2007-09-24 03:49:53
noboruさん 最近やる気なくなっちゃったのかなって
思っていました。

僕は相変わらず、一進一退でグルグルと同じ道を回って失敗ばかりしています。
でも、幸せになりたいから僕は正念にこだわるんですね。雑念が抑えられても、今の充実感、満足感がなければ単に念が静まっただけに過ぎない。

結局、菩提心を燃やして、一心不乱にやるしか僕は
わかりません。もうやけくそです。
明日はぶっ倒れるくらいの勢いでやってみます。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-09-24 12:38:30
くしゃとりあさん、お久しぶりです。ありがとうございます。

>noboruさん 最近やる気なくなっちゃったのかなって思っていました。

そうかもしれません。いろいろと積極的になってきているのは確かです。

>結局、菩提心を燃やして、一心不乱にやるしか僕は
わかりません。もうやけくそです。
明日はぶっ倒れるくらいの勢いでやってみます。

相変わらずの求道心ですね。刺激になります。はぶっ倒れるくらいの勢いでやって、力果てたときに、抜けるものが見えてくるということもあるのでしょうね。
ご健闘をお祈りします。
返信する
本気でやれば、わずか10秒 (くしゃとりあ)
2007-09-25 10:28:38
noboruさん 僕もやる気が常にあるわけではないですよ。

老師も、そのお師匠さんも、本気で修行をするのに、自分を追い込んだり、あるいは師の死によってようやく綿密に今を貫き通したり、皆、誰かの強い縁でようやく重い腰をあげて、修行をした結果、大悟したり見性したりと、なかなか怠け者ぞろいですよ。

人間とはそういう風に出来ているんだと思います。
僕の場合は、もうそれしかないから、他に何のとりえもないから喰らいついているだけです。

それに、今、一瞬のあの安らぎと、光と、愛と、調和の、何でも可能だと感じるあの光の領域にいたい。
あの全てがいとおしく、愛くるしいあの状態にいられたらどんなに生産的で、合理的で幸福であるか?
そしてそれは絶対に誰でも行き着くことが可能だ!
そう信じているから、馬鹿になってやっているだけです。

noboruさん!ビパッサナーでも何でも、本当に本気で、死ぬ気でやってみてください。絶対に必ず、偶然でもなんでも、あの、素晴らしい体験、涙が流れる体験ができますから!
絶対に誰でも出来るはずなんです。そしてそれは月日や年月を必要とするものでもありません。
そして一度体験してしまうと、そこを目指すようになります。絶対に得すると確信するからです。
返信する
必然の道 (Noboru)
2007-09-25 22:35:24
くしゃとりあさんのお言葉、ありがたく受けとめさせていただきました。私の中にそういう気持ちが出てきたら、それは私にとっての真実でしょうから、必死になることもあると思います。そういう気持ちが出てこないのに、「死ぬ気でやる」ということは、もちろんないと思います。

くしゃとりあさんは、心のなかにそういう促しがあって必死でとりくみ、深い安らぎの体験をされたのですね。素晴らしいことだと思います。そういう道がくしゃとりあさんにとって必然だったのでしょう。

私は、私に可能な道を歩んでいくほかないと思っています。
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少し残念です (くしゃとりあ)
2007-09-27 14:36:37
そうですか。

なんか最近のnoboruさんはつまんなくなりましたね。
以前はもっと熱いものを感じていたのですが・・。

なんか、多分、本の読みすぎですよ。
知識の蓄積による妙な分析と満足感なんか、一瞬の世界に比べれば屁みたいなもんなんですけどね。

僕も最近酒の勉強ばかりやって坐禅から遠くなってました。でも勉強や読書に時間を費やせば費やすほど、いつの間にか知識と思考で頭が占有されるようになり、今の充実感すら感じられなくなりました。
坐禅もやってませんでしたから。

だからまた元の起動に戻しつつやってます。
僕がこんな余計なコメントをするのは、noboruさんが自らを求道者だとおっしゃってたからですよ。
でも、もうコメントは控えたいと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-09-29 13:13:23
私は、今でも自分自身を求道者とし感じています。座禅をするとか激しい修業をするとかかということには関係なく、そう感じています。生きるとは何かを探求する姿勢(性向)そのものは変りようがないからです。

一方で、修行して自分を何とかしようとする自分自身のあり方にひとつの「物語」を感じてしまいます。そういうひとつひとつの「物語」をも自覚化していこうとするサティに対しては、最近意欲が復活していますが。

もし私に、厳しい修行や座禅を行うという意味での「求道者」を期待し、刺激し合う修行仲間を求めているのなら、その限りでは、対話をしても何かいつもずれを感じる結果になってしまうと思います。

今、日記にガンガジの言葉との対話を続けていますが、これは私にとっては自分の探求のあり方を確認するという重要な意味があるだろうと思っています。
返信する
求道者へ (くしゃとりあ)
2007-10-02 14:23:04
>もし私に、厳しい修行や座禅を行うという意味での「求道者」を期待し、刺激し合う修行仲間を求めているのなら、その限りでは、対話をしても何かいつもずれを感じる結果になってしまうと思います。


本気、必死に修行をした結果、たくさん失敗します。
毎日失敗ばかりです。ただ、それだけですよ。

多くの求道者に僕が激励として言いたいことは、
失敗も山となれば、一つの真理の山となる。ということです。
実はそれは、塵の山ではなくて真理の山かもしれませんよ。

安全に確実に慎重なやり方では失敗しても、山になるまで数万年。
全てを失う勇気が、ここで求められるのでしょう。

返信する
必死であろうとするエゴ (Noboru)
2007-10-05 21:31:29
ご返事がおくれてしまい、申し訳ありません。

〉本気、必死に修行をした結果、たくさん失敗します。
毎日失敗ばかりです。ただ、それだけですよ。

そうですね。私は、必死に修行はしてませんが、毎日、想念にまみれているのは確かです。私は、今、必死で何かをしようとするときの私の中のエゴと思考に自覚的であろうと思っています。

一生懸命修行をしようとする私の動機にひそむエゴ、それをどれだけ「無限後退」しながら、次々に自覚していくことができるか。その試みの中にさえ、何か成果を得ようとするエゴと思考がしのび込んでいることへの自覚。そういうことにどれだけ敏感であることができるか、ということに関心が向いています。
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