瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

思考を観察し続ける

2006年10月15日 | 瞑想日記
内的、霊的な成長こそが「限りあるいのち」に与えられた課題であろう。それは私にとって疑い得ないことだ。で、内的、霊的な成長のために何をすればよいのか。もちろん瞑想もそのひとつである。

今、私自身が意識しているのは「思考」だ。「自我」のすべてとは言わないまでも、「自我」のほとんどが思考によって、思考を養分として成り立っている。しかも、思考の大部分は、無自覚のうちにやってきて、無自覚のうちに忘れ去られていく。にもかかわらずそれらが積もり積もって「自我」という強固な殻を形作っていく。思考は「自我」の都合にそってなされる。

「思考」がなくなったらどうやって生きていくのか、と心配する必要はない。その90パーセント以上は、どうでもよいくだらない慰みや心配の繰り返しなのだから。「思考」を少しでも観察すればそれは明らかだろう。

「思考」を自覚化すること。気づき、サティし、観察すること。しかし、それを否定的に捉える必要はない。ただ、観察すること。そしてそれが「自我」にとってどんなうまみになっているかを洞察すること。

瞑想においては、「思考」に干渉されない知覚を体験すること。

これが、今の私のもっとも大切な課題であることを自覚し、ここに書きとめておこう。日常の現実に戻れば「思考」まみれになるのは、分かりきっている。しかし、「自我」を防衛し、拡大する思考内容とその利己的な性質を観察しつづけようとする意志を持ち続けることが大切だ。少しでもそのような思考から自由になろうとする意志を自覚し続けることだ。

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8 コメント

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Unknown (クシャトリア)
2006-10-19 12:44:50
以前紹介した参禅記の和尚の本に、坐禅はこうするのだ!という本があります。購入して買ってみたのですが、読んでいくうちに坐禅の基本となるところはほぼビパッサナー瞑想に近いものがあると感じました。それが僕にはわからない。例えば行動を10分の1にして隙なく気付いていくやり方です。これが基本のようでそのうちになぜか無念の念たる純粋なる今に目覚めていく。ここまでが4日程度です。その繋がりが僕にはわかりません。もし縁あったらnoboruさんも読んで欲しい。井上希道さんが著者であり、その和尚です。
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読んでみます。 (Noboru)
2006-10-19 22:57:38
クシャトリアさん、こんにちは。







分かりました。先ほどアマゾンで調べてしました。ぜひ購入して読んでみます。



読むのは、少し後になるかも知れませんが。



本についての情報、ありがとうございました。
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我流では信に弱いからか (クシャトリア)
2006-10-21 06:13:25
僕も日常で禅を用いているつもりですがいちいち手足の動きや、足裏の感覚などに意識を向けません。なぜならそれがすでに分別心であって、そのことに集中するならば、一向に平行線が交わる(一体化する)はずはないと思うからです。また思考を見守るという目も分別心に他ならず、この念を出していればまた一つの真我なる空ともう一つの自我という平行線をより強くさせるに過ぎない。それがもし成りきるという状態になれば、それはゼロ。つまり分別心はなくなるのでしょうが、この日常、つまり仕事をしたり勉強をしながらそれは不可能に近いと思います。どうもそこでつまづいています。坐禅はこうするのだ!という本は僕にそこらへんの疑問を生じさせました。成りきるなんて本当にあるのだろうかと。つまり僕のような我流の禅では限界を感じたのです。信に足りないと。それは道を歩んだ者しかわからない道標だと。まいったもんだ。
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観察と見極め (Noboru)
2006-10-22 13:12:06
私は、クシャトリアさんにアドバイスするだけのものをもっていませんが、私自身のことを語ることだけなら‥‥ということで。



今、私は真我や空を求めていません。分別心をなくす、それは求めていると思います。しかし、なくそう、なくそうという気持ちは最近あまりなくなっています。むしろ自分に生まれては消える思考や想念を観察しようと思っています。そして、それが自我のどんな必要から生じてくるのかをできるかぎり見極めようと思っています。



まったく参考にはならないかもしれませんが、私が今こころがけているということで書きました。
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ありがとうございます (クシャトリア)
2006-10-22 18:28:36
僕はいままで我流で禅をしてきて、いつもかっとんで今や、空やらを体験してきたのでその過程をしらないというか、そもそもそれが我流の限界だと思いました。つまり基本を知らなく軽視していた為、日常では活かせないんです。着眼が未だはっきりしない。



その基本というのがどうやら実にビパッサナーに近いんだと、前書で明らかとなりました。そういった過程を踏んで皆、純真たる今に目覚めていってる様子なのです。それが僕にはわからない。悟りのない坐禅は無意味であると切り捨てる和尚だけに、今の追求と坐禅の核心と要点に絞った、形式より中身の坐禅指導をしている。その基本から今に目覚める過程を僕は体験していないのです。それはやはり誰かの指導の元でないと難しい。徹することは可能ですが信じきれないのです。
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なぜ (Noboru)
2006-10-23 22:47:43
クシャトリアさん、



クシャトリアさんは、誰か良き師について、指導を受けるということに関して、何か困難な条件でもおありですか。



地理的な条件で、あるいは時間的な問題で、とか。



誰か指導者につかないと難しいと思われるならば、師を見つけだせばいいのに、というのが私の率直な感想です。
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馬鹿なんですかね (クシャトリア)
2006-10-24 00:20:38
笑 僕は頑固ですからね。 



人を救う道を歩もうと思っています。僕は僕の生きた経緯からもし自分の力で誰に師事することなく到達出来れば

それに越したことはないのです。誰かに師事されなければ駄目なのかとなったら、そういった環境に恵まれない人は路頭に迷うでしょう。何の希望にもならない。



師に頼るのはあくまで最終手段です。



しばらく頭で生きようとしてました。呼吸すら忘れてた。これじゃあ駄目だったはずです。呼吸を忘れていれば気が漲らないはずだ。



せっかく対話室を閉じたのにここで会話していては本末転倒ですよね。ここいらで身を引きます。坐禅の本の感想、

待ってますよ。では。

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本は注文しました (Noboru)
2006-10-25 21:26:24
本は、注文しましたので、もうすぐ手元に届くと思います。どんな形にせよ、このブログで触れることにします。時期は少し遅くなるかも知れませんが。
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