瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

覚醒・至高体験をめぐって24:  (4)自己超越④

2010年08月24日 | 瞑想日記
《自己超越を暗示するいくつかの事例》

次に短い文章によるいくつかの体験事例をあげてみたい。一九六一年に創立されたオックスフォード大学の宗教経験研究所が行ったアンケート調査によれば、全米のあらゆる職業人のおよそ三分の一が、人生に少なくとも一度は宗教的、超越的経験と思えるものに遭遇しているという。研究所の創立者ハーディーによると、魂に刻み込まれたその瞬間が、人生に計り知れない意味を与える場合がほとんどである。そして、こうした経験をする人々は、しない人々よりもずっと心理学的に健全な状態にあり、全体としてバランスの取れた精神状態にあって、より幸せで、社会的責任感も人一倍あることが多いという。この研究所の報告の中からB認識と自己超越との関係を暗示する事例をいくつか取り上げる(ジョン・ヒック『魂の探求―霊性に導かれる生き方』徳間書店、2000年)。

『その現象は扉の外で変わらず起こる。"生かされている歓び"の気持ちがそれを先触れする。どれほどこの感覚が続くかは分からないが、しばらくして、感覚が目覚めるのを知る。何もかもが鮮烈になり、視覚と聴覚と嗅覚は、まったく別の意味をもってくる。すべてに善を感じるようになる。それから、明りが消されるようにすべてが静まり返り、自分が本当にその光景の一部であったかのような感覚をもつ』

『道を歩きながら、夕日を拝もうと西を振り返る。日没の瞬間、紅の空を背に、松の木立が黒いシルエッ トのように浮かび上がるのを見た。そのときに、あたかも"私"という名のスイッチが切られたかのような思いがした。私の意識は、以前は観察される対象だった"存在"を包むまでに広がった。"私"は日没 であり、"それ"を経験する"私"は存在しなかった。観察するものとされるものはそこにはない。同時 に、永遠が"生まれ"た。過去も、現在も、未来もなく、永遠の今だけがそこにあった。それから、いつも通りの意識に返り、野を歩いている自分に気づいた。だが、記憶は鮮やかだった』

『‥‥自然の中に入り、生い茂る草を感じる。澄み切った空を雲とともに流れ、大地の鼓動に耳を傾ける。 その色と臭いが強く迫ったときに、私は自分が別の存在であるという感覚を失った』( フォレスト・レイドの自叙伝より)

最後に別の資料から、もう一例あげたい。

『ある日の午後、私は窓の外の一本の古木の頂きに見入りながら、私の思考は強烈に、自分自身の人生についての瞑想から、螺旋状にダルマ(仏教語のダルマは、端的に実在を意味する)の本質の内部に入って行った。私は私の「自己」が、それよりも無限に大きなものに溶け込んで行くにつれ、そこにはただ、温かみのある愛と光の大きな波が一つあるのみとなった。遂に二つでなく、ただ大いなる一者のみとなった。ダルマ以外は何もなかった。何もなし。私は私自身である。これだけであった。(‥‥中略‥‥)
 そして、その後、外を歩いていた。万物が信じ難い実在の単純さに輝いており、私もまたその実在の不可欠の部分(an integral part)であった。それを何と言い表してよいか、まったくわからない。そこにはこれを経験したり考えたりするような私はもはやなかったからである。ただただ、まったく平安そのものであり、それ以外の何ものでもなかった。』(T・G・ハンド『水の味わい―東洋思想と神』春秋社、1993年より、L氏『私の悟りへの道』)

これらの事例は、それぞれ表現にはかなりの違いがある。また、たとえそれが一時的なものであるにせよ、「自己」という束縛からの解放といえるものを描いているようだ。すくなくとも「自己」と森羅万象との隔たりがなくなっている。マスローの表現でいえば、「認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つ」という至高体験の特徴に合致するだろう。

こうしたいくつかの事例からも推察できるように、覚醒や至高体験の中核には何かしら日常的な「自己」を超える体験が横たわっているようである。
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