◆エックハルト・トール『A New Earth』(訳書は『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』)より
Stillness Speaksの中の文を取り上げて感じたことを書くのは、とりあえず終了。今日からは
A New Earthを読んでのコメントをしばらく続けたい。
What a liberation to realize that the “voice in my head” is not who I am. Who am I then? The one who sees that. The awareness that is prior to thought, the space in which the thought ---or the emotion or sense perception --- happens.(P38)
「『頭の中の声』が私なのではないと実感するということは、何という解放感だろうか。それでは、私とは誰なのか。それを見ている者のことだ。思考に先立つ気づきのことだ。その中で思考や感情や知覚が起る場のことだ。」
思考よりも前にある気づきこそ本当の私だということは、エックハルト・トールが様々なところで繰りかえし語っていることだ。もちろんその解放感は、実際に認識の転換が起らなければ分からないことなのだろう。思考し、思考に執着し、思考こそが自分だと思っている「私」。しかし、思考の織物にすぎない「私」のはかなさ、根拠のなさ、夢幻のような脳内のイリュージョンに過ぎないということが実感として分かってしまえばどうなるのか。 それはきっと限りなく大きな解放感なのだろう。
◆夜中の3時ごろ夢から醒めた。夢の中で私は父母とともに生活していたが、帰るべき自宅がなく、三人で誰かの家に居候していた。私が働きに出るときは何かの事情で父母もつれて出なければならなかった。私は夢の中で道路の測量の仕事を担当していたが、準備が整わずほとんど一日、無為に待たされることになった。私は、何もできない長い時間を待った。
そしてはっと気づいた。父母も近くの公園で私の仕事が終わるのを待っていたのだ。かなり陽射しが強かった。公園に駆けつけた。父はすぐ見つかった。何もすることのない時間を、外でじっと待っていなければならない辛さを思って胸が痛んだ。車椅子の母がいなかった。母は病弱だった。やっと見つかった母は、全身に汗をかいて朦朧とし苦しそうだった。強い陽射しの中で耐えていたが、それがダメージになったようだった。私は、「病院は、救急車は」と気ばかりが焦っていた。
そんなところで目が覚めたようだ。外で何もすることもなく苦痛に耐えて待たなければならない父母への痛みが夢から醒めても胸に残っていた。何でこんな夢を見たのかよく分からない。(母は2004年に他界し、父は脳梗塞の後遺症はあるが共に生活している。)
もしかしたら、生きるということ、「私」という幻影に執着しつつ生きるといことは、父母や私が、不安を抱きながら苦痛に耐えて、無為に何かを待たなければならなかった状況と、基本的には同じことなのかも知れない。実際には様々なことを行うが、だれもその本当の意味をわかっているわけではない。なぜこんなことをするのか、大もとのところは何もわからず、心の奥深くには深い不安をかかえながら、帰るべきところもなくただ待っている。それが生きるということなのかも知れない。
そして「私」という執着から解放されるなら、この苦痛に耐えて無為に待つ人生という風景は一変するのかも知れない。
Stillness Speaksの中の文を取り上げて感じたことを書くのは、とりあえず終了。今日からは
A New Earthを読んでのコメントをしばらく続けたい。
What a liberation to realize that the “voice in my head” is not who I am. Who am I then? The one who sees that. The awareness that is prior to thought, the space in which the thought ---or the emotion or sense perception --- happens.(P38)
「『頭の中の声』が私なのではないと実感するということは、何という解放感だろうか。それでは、私とは誰なのか。それを見ている者のことだ。思考に先立つ気づきのことだ。その中で思考や感情や知覚が起る場のことだ。」
思考よりも前にある気づきこそ本当の私だということは、エックハルト・トールが様々なところで繰りかえし語っていることだ。もちろんその解放感は、実際に認識の転換が起らなければ分からないことなのだろう。思考し、思考に執着し、思考こそが自分だと思っている「私」。しかし、思考の織物にすぎない「私」のはかなさ、根拠のなさ、夢幻のような脳内のイリュージョンに過ぎないということが実感として分かってしまえばどうなるのか。 それはきっと限りなく大きな解放感なのだろう。
◆夜中の3時ごろ夢から醒めた。夢の中で私は父母とともに生活していたが、帰るべき自宅がなく、三人で誰かの家に居候していた。私が働きに出るときは何かの事情で父母もつれて出なければならなかった。私は夢の中で道路の測量の仕事を担当していたが、準備が整わずほとんど一日、無為に待たされることになった。私は、何もできない長い時間を待った。
そしてはっと気づいた。父母も近くの公園で私の仕事が終わるのを待っていたのだ。かなり陽射しが強かった。公園に駆けつけた。父はすぐ見つかった。何もすることのない時間を、外でじっと待っていなければならない辛さを思って胸が痛んだ。車椅子の母がいなかった。母は病弱だった。やっと見つかった母は、全身に汗をかいて朦朧とし苦しそうだった。強い陽射しの中で耐えていたが、それがダメージになったようだった。私は、「病院は、救急車は」と気ばかりが焦っていた。
そんなところで目が覚めたようだ。外で何もすることもなく苦痛に耐えて待たなければならない父母への痛みが夢から醒めても胸に残っていた。何でこんな夢を見たのかよく分からない。(母は2004年に他界し、父は脳梗塞の後遺症はあるが共に生活している。)
もしかしたら、生きるということ、「私」という幻影に執着しつつ生きるといことは、父母や私が、不安を抱きながら苦痛に耐えて、無為に何かを待たなければならなかった状況と、基本的には同じことなのかも知れない。実際には様々なことを行うが、だれもその本当の意味をわかっているわけではない。なぜこんなことをするのか、大もとのところは何もわからず、心の奥深くには深い不安をかかえながら、帰るべきところもなくただ待っている。それが生きるということなのかも知れない。
そして「私」という執着から解放されるなら、この苦痛に耐えて無為に待つ人生という風景は一変するのかも知れない。