瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

一日断食11回目

2005年07月24日 | 瞑想日記
◆一日断食11回目
昨日、一日断食11回目。金曜の夜の体重が60.4キロだったのはおぼえているが、昨日の朝の体重は正確にはおぼえていない。一晩寝ると1キロくらい減るから、59.6キロか59.4キロぐらいだっただろう。そして今朝の体重は、58.0キロであった。これまででいちばん少ない。

ただ、昨日は午前中からずっと軽い頭痛があった。夜になると少し痛みがました。夜10時半ごろから2時間ほど寝た。そのあと再び起きた時には、かなりよくなっていたがすっきりとはしなかった。今朝(9時半現在)は、すっかり元気である。水を二杯、野菜ジュースを半杯ほど飲んだだけだが、空腹感はない。便通があるまではまたおかゆの腹食はしないつもりである。

9回目の一日断食のときにも頭痛があった。頭痛は断食と何か関係があるかもしれない。甲田氏の本に確か、断食過程で一時的に頭痛が出る場合の例に触れられていたと思うので、あとで調べてみよう。

◆限定する「私」
昨日は瞑想をしなかった。今朝起きてすぐ30分ほど座禅。しばらく瞑想をしていなかったせいか、「生理的な瞑想状態」が深まらない。サティも冴えなかった。飛行機の音がした。「音」とラベリングしても、飛行機の音という無意識の判断がともなっている。そでだけでなく空や雲や飛行機のイメージが音を聞いたと同時についてくるのが分かる。

何ものにも限定されない意識、純粋な私が、世界を自分流に限定していく「私」とその限定作業を見ている、そんなイメージでサティした。これからもそんな感じでやっていこう。瞑想時だけでなく、日常の生活のなかでも。
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野口整体の教室、第2回目

2005年07月22日 | 瞑想日記
朝日カルチャセンター・新宿での野口整体の講座、第2回目である。前回は少し遅れたが、今回は5分ほど前に着くことができた。指導は、金井氏のお弟子さんであるT氏。他にアシスタントの方が二人。参加者は前回より少ない21名ほど。一回だけの「トライアル」参加の人が少なかったからかもしれない。

最初にT氏によるアシスタントの人への愉気のデモンストレーションがあった。仰向けになったアシスタントの人のみぞおちにあたりに愉気していると、自然にゆっくりとした活元運動が始まる。本人の体の歪みを戻すためにいちばん適した運動が自然に出てくるという。その感じは、自発動気功の経験から私もよく分かる。次に正座の姿勢からの愉気が始まるが、次第に腰の回転を中心とした運動になり、最後には、正座の姿勢からぴょんぴょんと飛びはねるような運動が出ていた。運動が、上半身から腰に下がって、歪みのおおもとにかかわる運動になっていくらしい。

邪気を吐いたり、骨盤を緩めたり、背骨を刺激したりする準備の運動のあと、音楽を聞きながら活元が始まる。後半のこの流れはいつも同じだ。今回私は、前回よりは若干動きが大きかったが、腰の回転を中心とした比較的ゆっくりした動きがずっと続いていた。終了後は、腰や下腹部がほぐれた感じで気持ちよかった。

準備運動から活元というワークを日常のなかでどれだけ出来るかが問題だろう。これまでは家でやってみようという気持ちにはならなかった。今は、少しやってみようか、という感じにはなっている。
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唯一性の逆説

2005年07月22日 | 瞑想日記
私の経験の世界は「私」(エゴ)によって多かれ少なかれ粉飾されている。「私」中心に構築され、ゆがめられている。それが「私」の経験。しかし、「私」による粉飾や歪みは、限りなくゼロに近づいていくことが可能だ。粉飾や歪みが限りなく小さくなっていくとき、何が起こるのか。

おそらく、私の経験の世界は、私の経験の世界として唯一でありながら、その唯一性を超えていく。私の経験の世界は、「私」の経験の世界であることを超えて、限りなく開かれていく。もはや「私」による矮小化を受けず、限定を受けず、純粋主観性として、存在の静けさへと開かれる。

私の経験世界の唯一性が、そのまま、一元の世界に転換することの逆説。

「私」は、想念によって作られ、逆に「私」は、無数の想念の連続を「私」だと思い込む。その「私」が世界を限定する。

◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)より
「われわれは自分の想念を自分だと考え、自分のさまざまな思いを『私』と読んでいる。想念を手放すとき、われわれは自分自身、自分だと思い込んでいるものを超えてゆく。落ち着きなく動き回っている心の奥には、存在の静けさ、名前や評判などという守るべきものを一切もたない静寂がある。それが生来の心である。」
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純粋な気づき

2005年07月20日 | 瞑想日記
◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)について
本のことだから、読書日誌・エポケーの方に書いてもよいのだが、向こうでは「免疫革命と甲田療法」ということで、何回かに分けて書いているし、レヴァインの本は、瞑想への気づきにつながる内容なので、こちらに書く。

この本の言葉は詩のように美しく、かつ繊細で深く、豊かに変化しながら私の心に触れてくる。著者自身が、広大無辺の世界、静謐の世界に触れる体験をもっていないと、このように豊かな言葉の数々を生み出すことはできないだろう。分厚い本だが、じっくりと読む価値がある。

「われわれは一瞬一瞬、心に浮かんでくるものと同一化し、それが浮かんでいる空間に目を向けることはめったにないため、自分の本性に気づかない。そして、蜃気楼から蜃気楼へと、瞬間的心から瞬間的心へとよろめきながら、『この欲望が私だ』『この心が私だ』『この渇望が私だ』という感覚に自分を見失っているのである。」

「欲望に導かれた人生、渇望へと収縮した生が、存在の広大さを体験することはめったにない。何も望まず、何も求めず、その生来の広がりのなかに何が顕れようと、顕れてくる形のまま受け入れる純粋な気づきを体験することはめったにないのだ。」

「‥‥すべての変化する形態がそこから発生する、あの広大無辺に意識を集中しはじめるなら、われわれは思考を超えて見るようになる。迷妄の心のたえず変化する衝動の背後に、平等観と慈しみにあふれた無執着の目で、通り過ぎる一切のものを目撃している静謐があることを理解するのである。」

個々の経験、自己を中心として縁どられ、色づけられた一切の経験、それらの限定的な経験を成り立たせる、透明な地平。顕れてくるものを顕れてくるままに受け入れる純粋な気づきの地平。その地平が、広大無辺と呼ばれ、静謐といわれるのだろう。

私は、その地平を「私の世界」として限定し、装飾することで見えなくしてしまっている。しかし、一切の限定や装飾を捨て去ったところに、なお純粋な気づきの地平が残るらしい。何となくそんな感じはする。対象化できない純粋な主観性。

◆朝食抜き、小食
朝食抜きはとくにことわらなければいつも。便通は二日とも午前午後2回。それぞれ量は多い。便通の良さは定着した。昼食は二日とも野菜サラダ数種類。今日は、それに生の胚芽米少々とコーンスープ。カタクチイワシ、数口。プルーン、六つほど。夕飯は家族と共に普通の食事。帰宅後、夕食前に食べたくなって間食をする(二日とも)。
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自分は誰か

2005年07月18日 | 瞑想日記
スティーヴン・レヴァインの『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)という本を読んでいる。帯に「キュブラー=ロスらと共に活動し、米国の臨死ケアの第一人者」とある。序言でラム・ダスも言っているように詩人であり、含蓄のある表現で、死をめぐる体験、生と死の真実を語る。抜書きしておきたい言葉が、あちこちにちりばめられている。エポケーの方にレビューは書くが、こちらには自分の気づきにつながるような言葉を書き写して、感想めいたことを書いていきたいと思う。

安谷禅師と西欧人の弟子とのやりとりの中で、安谷禅師が、
「自分が誰であり、何であるかについての予め抱かれた観念がすべて消えるまで、その問いをただ深めていきなさい。そうすれば、ただちに、全宇宙がお前自身と別のものではないことを理解するだろう。」

自分が誰であるかの先入観が消えるまで、自分が誰であるかを問う。問いて答えることが問題ではない、問うこと自体が重要なのだ。自分は誰であるのか。

その問いは、私にとって、自分はどこから来て、どこへ行くのかという問いに連なる。「どこから」という問いは、自分の無根拠性という感覚につながっていた。自分が自分であることの根拠。たとえ、何度も輪廻を繰り返してきたのだとしても、その最初は何だったのか。この無限の時間のなかで、自分が自分となったことの根拠は何か。何もない。

今生で、今ここで自分は自分である。しかし、その根拠は、無限の過去にも、無限の未来にも、何もない。
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