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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

金柑少年の至福

2009-03-09 | 舞台芸術
 3月7日、山海塾の公演「金柑少年」を東京芸術劇場中ホールで観た。(主催:フェスティバル/トーキョー)
 1978年6月、当時28歳の天児牛大によって創られ、初演された作品であり、80年のナンシー国際演劇祭参加を契機として、広く欧州・南米に「山海塾」の名を知らしめることとなった記念碑的作品でもある。
 のっけから恥ずかしい話であるが、私はこの高名な作品を観るのは実は今回が初めてなのだ。それどころか山海塾の舞台そのものに接するのが今回初めてなのだった。敬して遠ざけていた、というか、たまたま観る機会がなかったということに過ぎないのだけれど、それだけにとても楽しみにしていた舞台でもあった。

 個人的な趣味でいうと、私は勅使河原三郎のダンスが大好きであり、88年の東京国際演劇祭で彼の野外公演を観て以来、しばらく追っかけをしていたほどなのだが、それ以外の舞踏公演にはあまり接点がなかった。
 しかし、記憶をさかのぼってみると、70年代前半の時期、私がまだ少年だった頃だが、芝居の稽古場として目黒にあったアスベスト館を使わせてもらっていたことがあり、そこに出入りする舞踏の踊り手の方々とすれ違ってはいたのである。
 当時、すでに土方巽は自身では踊らなくなっていて、アスベスト館では映画の「肉体の叛乱」を観たり、芦川羊子や白桃房の公演を観たりした。建替え前の四谷公会堂には「アリアドーネの会」の公演を観に行ったりしていたものだ。
 今にして思えば稚拙極まりなく赤面ものなのだけれど、自分なりに舞踏表現というものを咀嚼して演技に取り入れようとしたこともあったのである。
 
 それなのに山海塾の舞台を観ていなかったのは何故なのか。私がその名を意識した頃にはすでにヨーロッパで高名になっており、自分の感性には合わないと決め付けてしまっていたのかも知れない。

 さて、「金柑少年」であるが、終演後のトークで蜷川幸雄氏が言った「痛切な美しさに満ちた舞台」という言葉に尽きるかも知れない。
 しかし、それ以上に私は、思いのほか日本的感性の発露した表現や土着的な振りに感動していた。
 強い光を放つ夏の太陽のもと、昏倒する少年が一瞬にみた記憶、その瞬間には太古の生命の始原から永遠に至る時間が流れていく。
 踊り手の背中に乗った孔雀は奇跡のような羽ばたきを見せたし、ユーモラスでもある豆太郎の笑いはたちまち高貴なる聖母の踊りへと変容して観る者を感動させる。
 ダンサーたちの肉体は官能に満ち、その格闘は古代ギリシャの壁画を模したもののようにも思えた。
 私が創造していたよりはるかに抑制されたその動きは私たちの内面からの言葉を誘発する。舞踏とは、言葉から生まれながら、実際には舞台上で言葉を発しないことによって、却ってより多くの言葉と声を獲得する表現方法なのかも知れない。

 私はこの舞台を観ながら、1976年に発刊された吉岡実詩集「サフラン摘み」を思い出した。
 その装丁の表紙、片山健の絵がまたそんな連想を呼び起こすのだろうが、有名なその一節はまさに舞台上のさまざまなシーンを喚起させる。

  クレタの或る王宮の壁に
  「サフラン摘み」と
  呼ばれる華麗な壁画があるそうだ
  そこでは 少年が四つんばいになって
  サフランを摘んでいる
  岩の間には碧い波がうずまき模様をくりかえす日々
  だがわれわれにはうしろ姿しか見えない
  少年の額に もしも太陽が差したら
  星型の塩が浮かんでくる
  割れた少年の尻が夕暮れの岬で
  突き出されるとき
  われわれは 一茎のサフランの花の香液のしたたりを認める

 全部をそのまま引用したい誘惑に駆られるけれど、こうした言葉たちに導かれながら私はこの舞台を心ゆくまで堪能した。

 そういえば、この吉岡実の詩集に掲載された詩の何篇かは土方巽をはじめとする暗黒舞踏との出会いから生まれているようなのだ。
 なかには1975年に書かれた「あまがつ頌」という詩があって、それには「北方舞踏派《塩首》の印象詩篇」と副題が書かれている。この詩と天児牛大氏との関係はあるのかないのか私にはまるでわからない。今度、フェスティバル/トーキョー実行委員長の市村さんにでも教えていただこう。


世阿弥の観客論

2008-12-19 | 舞台芸術
 芝居は観客に理解されない、と登場人物に語らせたピランデルロ。
 表現する側にとって、演ずる者にとって、そして観客にとって必要な演劇とは何だろう。双方の幸福な出会いとは何なのだろう、ということをよく考える。
 真に理解されるとはどういうことをいうのだろう。

 最近、世阿弥の「風姿花伝」を読むたびに、もっと早くこの本と出会うのだったと悔やむことが多い。自分の浅学非才をいまさら嘆いても仕方がないのだけれど、役者であり、演出家であり、プロデューサー、劇団経営者、興行主でもあった世阿弥のこの著作は、演技論としても、演出論としても、ビジネス書としても実際的で実利的でじつに興味深い。
 その一節にこんなくだりがある。

 「上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利の眼に合ふ事なし。下手にて、目利の眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の、目利かずの心に合はぬ事、是は目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、又、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん為手をば、花を極めたるとや申すべき。」

 これを歌人の馬場あき子の解説を援用しながら読み直してみると―――。

 あまりに高級すぎて、目の利かない観客や批評家に受け入れられない芸がある。下手はもとより、目利きの意に添うはずもない。下手の評判が悪いのは当然だが、悲しいのは優れた演者の芸が、進んでいすぎるがために目利かずの心に入っていけないことである。
 しかし、努力家の世阿弥は、そうした場合にも工夫と芸能人のサービス精神によって、目利かずの眼にも面白いと見えるように能を舞えといっている。
 世阿弥は、最高の芸術が真に最高であるためには必ず備えている条件としての普遍性について「工夫と達者(熟練)」を求めているのであり、こうした芸の、広く面白がられ、深く面白いものこそ「花を極めたる」芸といえるものだと断言するのだ。

 前衛的で最先端の優れた舞台芸術が、進んでいすぎるがために一般観客や旧体質の批評家の心には届かず、受け入れられないことがある。そればかりか、現代に置き換えて考えれば、スポンサーである民間企業の社長や公共劇場を擁する自治体の首長、住民の感性にそぐわず、まったく受け入れられないという事態もありうるだろう。
 そうした場合、世間に受け入れられず、理解されないことを嘆くばかりでよいのか。
 そうではなく、工夫と熟練によって、舞台芸術そのものに対する理解力のない観客をも納得させ、面白がらせる技量を示すべきだというのが世阿弥の教えなのである。
 
 これは、演劇と観客が真に出会うための仕掛けを戦略的に行うための要諦でもある。舞台芸術は複製も保存もきかず、生で賞味されなければまったく意味のない芸術である、という宿命を負っている。
 私たちは深く考えるべきなのだろう。
 
 独りよがりで未熟なものに見向きする暇など誰も持ち合わせてはいないのだから。