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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

オセロー/イ・ユンテク

2009-03-01 | 演劇
 2月27日、韓国の李潤澤(イ・ユンテク)演出作品「オセロー」を東京芸術劇場中ホールで観た。製作・主催:フェスティバル/トーキョー。
 原案は、ク・ナウカ シアターカンパニーの宮城聰の委嘱を受けて比較文学者の平川祐弘が、シェイクスピアの「オセロー」を旅の僧が殺されたデズデモーナの霊と出会うという様式夢幻能の手法で書き換えたもの。イ・ユンテクは、その「夢幻能オセロー」にさらにシャーマニズム舞踏「招魂クッ」などを取り入れ、日韓の伝統をシェイクスピア劇の中で融合させて新たな舞台を創造した。
 間狂言として、原作の「オセロー」の場面が演じられる。
 
 舞台上で生演奏される元一(作曲・音楽監督)の音楽がまず素晴らしい。基礎知識なしに書いてしまうけれど、和太鼓、笛、笙、琵琶、琴、パーカッションなど様々な楽器のつむぎ出すその音は、能楽の伝統を思わせながら、深くアジア大陸から伝わった原初の音色であり、私たちのルーツが一つながりのものであることを感覚的に示しているようだ。
 私は、舞台を観ながら、以前チェリストのヨーヨー・マがテレビ番組のために広く中央アジアや中東にまで取材した「シルク・ロード・アンサンブル」の音楽を思い出したりしていた。

 古代日本の卑弥呼を持ち出すまでもなく、シャーマニズムはわが国にも受け継がれたDNAなのかも知れない。ク・ナウカ シアターカンパニーの場合、個人的には何となく理知的に過ぎると感じるきらいがなくもなかったのだが、今回の舞台は心の奥底から揺さぶられる感動を覚えた。

 演劇における言葉=台詞の扱いで難しいのは、その音楽的処理であろう。
 オペラであれば、重なり合う異なる人物の台詞もポリフォニーとして処理できるものが、演劇の場合はともすれば混濁して耳にうるさいだけだ。
 この舞台では、謡曲的な発声、台詞回し、さらにおそらくは韓国伝統の音楽的要素も加わって、役者の台詞が実に素晴らしい音楽的リズムで処理されていたように感じられた。

 エンディング近く、劇場全体を揺るがすような祝祭的舞踏はデズデモーナの霊はもとより、観客の私たちをも慰撫し、浄化する。
 
 申楽延年は仏の在所たる天竺に起こり、あるいは神代より伝わる、と書き残した世阿弥の言葉を思い起こし、11世紀半ばに著された「新猿楽記」でその人気の程を示した「猿楽の態、嗚呼の詞、腸(はらわた)を断ち頤を解かずといふことなし」というくだりを想起しながら、この舞台のラスト、祝祭的な舞踏のうねりに身をまかせていると、何千年の時と空間をまたぎながら脈々と連なる芸能の来し方、現在における在り様というものに新たな感慨を覚えずにはいられない。
 西洋古典劇を題材にしながら、アジア的伝統が溶け合い、新たな表現の可能性を示す場に立ち会うという幸せを感じた舞台であった。

 追記:「資本論」「オセロー」とオープニングの2作品を続けてみた興奮が今も身体のなかで息づいている。これだけでフェスティバル/トーキョーの成功を十分に予見させるではないかと気の早い老俳優は思うのだ。
 短期間に14作品を創り、次々と展開しなければならないスタッフは本当に大変だけれど、プログラム・ディレクターの相馬千秋さんをはじめ、それを支える制作陣の努力に心からの拍手を送りたい。