3人の作家の作品を続けて読んだ。
川上弘美著「なめらかで熱くて甘苦しくて」
絲山秋子著「忘れられたワルツ」
津村記久子著「給水塔と亀」
前2作は短編集、「給水塔と亀」は川端康成文学賞受賞の短編小説である。
共通するのは3人の作家がともに女性であるということなのだが、これはたまたまそうだったということなのか、今は女性の書くものが面白いということなのか…。
川上弘美(以下敬称略)の小説にはそれぞれ「水」「土」「空気」「火」の4元素と「宇宙」を意味するタイトルがラテン語によって表記されている。
これらの作品のテーマは「性」あるいは「性欲」ということなのだが、川上弘美は作者インタビューで次のように語っている。
「たとえば雑誌の『セックス特集』などで、『性』はそれだけ切り取られて語られがちですが、性欲について書こうと考えるうちに、そのようには語れないと気がつきました。朝目を覚まして1日を送る、その中に、性欲は根を張って取り込まれている。それは宇宙を構成する4元素と同じように、自分を構成している要素のひとつだと思ったんです」
つまり本作は、いわゆる男女のあれやこれやを描いた心理小説ではなく、恋愛小説でも、ましてや官能小説などではまったくなく、それどころか通常私たちが「現実」と呼ぶこの世界を描いた小説ですらない。
宇宙を成り立たせているあらゆる要素、その一つである生物としての人間の誕生から死にいたる過程において生起する現象の深い深い根っこにあるものを、性欲を切り口にして描いた詩のようなもの……という言い方があるいはできるかも知れない。
なかなか言葉にしづらいのだが、私たちは紛れもなく生物であり、細胞や分子の集合体であるということ、その細胞レベルの結合や分裂といった現象の中に愛だの恋だの憎しみだのといった物語がシステムとして組み込まれているのではないか、といったことを考えさせられるのだ。
そうした生成過程を経るなかで自己複製や増殖が折り重なり、やがて生まれる典型的な「むかし男ありけり」「女ありけり」といった物語となって幾重にも織りなされ、原型となって人々に間に語り継がれていくのではないだろうか、そんなことを想起させられる。
これと比べて、絲山秋子の「忘れられたワルツ」に収められた作品群は、もう少し身近でより現実的な設えを有している。
ただ、その現実感が、いずれの作品においても、あの3.11を境にして少し歪んでいたり、ずれていたり、傷んでいたり、別のものに変容してしまっているのだ。
その何気ない語り口が、この世界が背負い込んでしまった痛みの深さを余計に感じさせる。
まるでいつもと同じ風景なのに、いつの間にかまったく異なる世界に入り込んでしまったような恐怖。何気ないだけにその底深い恐ろしさがそこには描かれている。
何度も繰り返し読みたくなる、小説の面白さと深さを兼ね備えた素晴らしい作品集である。
津村記久子の短編「給水塔と亀」はこれらとはまったく趣を異にした、正攻法の、小説らしい小説である。
会社を定年退職した独身男性が故郷に引っ越す一日を描いた作品で、給水塔や亀、海、たまねぎ畑、うどんといった道具立てがたくみに配置され、何気ない日常が淡々と、しかし揺るぎのない現実感と深みを持って描かれている。
それが400字詰め原稿用紙でたった20枚ほどのなかに表現されているのだ。その面白さ。凄さ。
それぞれの作家が違った持ち味で、それぞれ異なるアプローチでこの世界に対峙し表現しようとしている。小説という芸術の多様性や新たな可能性を感じさせてくれる、楽しい読書体験だった。
川上弘美著「なめらかで熱くて甘苦しくて」
絲山秋子著「忘れられたワルツ」
津村記久子著「給水塔と亀」
前2作は短編集、「給水塔と亀」は川端康成文学賞受賞の短編小説である。
共通するのは3人の作家がともに女性であるということなのだが、これはたまたまそうだったということなのか、今は女性の書くものが面白いということなのか…。
川上弘美(以下敬称略)の小説にはそれぞれ「水」「土」「空気」「火」の4元素と「宇宙」を意味するタイトルがラテン語によって表記されている。
これらの作品のテーマは「性」あるいは「性欲」ということなのだが、川上弘美は作者インタビューで次のように語っている。
「たとえば雑誌の『セックス特集』などで、『性』はそれだけ切り取られて語られがちですが、性欲について書こうと考えるうちに、そのようには語れないと気がつきました。朝目を覚まして1日を送る、その中に、性欲は根を張って取り込まれている。それは宇宙を構成する4元素と同じように、自分を構成している要素のひとつだと思ったんです」
つまり本作は、いわゆる男女のあれやこれやを描いた心理小説ではなく、恋愛小説でも、ましてや官能小説などではまったくなく、それどころか通常私たちが「現実」と呼ぶこの世界を描いた小説ですらない。
宇宙を成り立たせているあらゆる要素、その一つである生物としての人間の誕生から死にいたる過程において生起する現象の深い深い根っこにあるものを、性欲を切り口にして描いた詩のようなもの……という言い方があるいはできるかも知れない。
なかなか言葉にしづらいのだが、私たちは紛れもなく生物であり、細胞や分子の集合体であるということ、その細胞レベルの結合や分裂といった現象の中に愛だの恋だの憎しみだのといった物語がシステムとして組み込まれているのではないか、といったことを考えさせられるのだ。
そうした生成過程を経るなかで自己複製や増殖が折り重なり、やがて生まれる典型的な「むかし男ありけり」「女ありけり」といった物語となって幾重にも織りなされ、原型となって人々に間に語り継がれていくのではないだろうか、そんなことを想起させられる。
これと比べて、絲山秋子の「忘れられたワルツ」に収められた作品群は、もう少し身近でより現実的な設えを有している。
ただ、その現実感が、いずれの作品においても、あの3.11を境にして少し歪んでいたり、ずれていたり、傷んでいたり、別のものに変容してしまっているのだ。
その何気ない語り口が、この世界が背負い込んでしまった痛みの深さを余計に感じさせる。
まるでいつもと同じ風景なのに、いつの間にかまったく異なる世界に入り込んでしまったような恐怖。何気ないだけにその底深い恐ろしさがそこには描かれている。
何度も繰り返し読みたくなる、小説の面白さと深さを兼ね備えた素晴らしい作品集である。
津村記久子の短編「給水塔と亀」はこれらとはまったく趣を異にした、正攻法の、小説らしい小説である。
会社を定年退職した独身男性が故郷に引っ越す一日を描いた作品で、給水塔や亀、海、たまねぎ畑、うどんといった道具立てがたくみに配置され、何気ない日常が淡々と、しかし揺るぎのない現実感と深みを持って描かれている。
それが400字詰め原稿用紙でたった20枚ほどのなかに表現されているのだ。その面白さ。凄さ。
それぞれの作家が違った持ち味で、それぞれ異なるアプローチでこの世界に対峙し表現しようとしている。小説という芸術の多様性や新たな可能性を感じさせてくれる、楽しい読書体験だった。