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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

身体の声

2014-10-10 | 舞台芸術
 もう2週間も前になる。先月26日のこと、ご案内をいただいて「2014時代を創る現代舞踊公演」(渋谷区文化総合センター大和田さくらホール)を観に行った。文化庁の新進芸術家育成事業に位置付けられ、24日から3日間にわたって何組もの踊りが繰り広げられるというもの。私が観に行ったこの日は、7組の演目が展開されて、ある種のショーケースのようだった。
 ところで私は舞踊については全くの門外漢なので現代舞踊の何たるかを言葉にすることができない。
 たとえばモダンダンスとモダンバレエ、コンテンポラリーダンスの違いをきちんと定義づけよと言われると口ごもってしまう。
 そう考えると、世の中にはきちんと定義づけないままに語られる物事のいかに多いことか、と改めて思うのである。
 この日の演目を観る私には、踊り手たちのその技量のほどを図る術はなく、批評する言葉も持たないのだが、素人なりにその良し悪しを勝手に云々するのは他の観客と同じことだ。むしろ素人の方が辛辣なことを言いかねない。

 評論家の渡辺保氏はその著書「日本の舞踊」(岩波新書)の中で、何年も前のある日のこと、昼間、歌舞伎座で中村歌右衛門60歳の「京鹿子娘道成寺」の千秋楽の舞台を見、その夜、新宿厚生年金ホールでモーリス・ベジャールの「われらのファウスト」を見た時、その踊り手たち紡ぎだす舞踊の一連の動きの中から、声とも言えない声のようなものが聞こえたと感じた、その経験から、「舞踊の定義は、私にとって、あの身体の声を聞くことに他ならなかった。舞踊を見るたのしみとは、あの身体の声を聞く楽しみであった。」と言っている。
 もう少し引用しておこう。
 「…人間は、言葉以外の言葉をしゃべる動物なのである。人間の身体は、言葉よりも豊かな声なき声をもっていて、言葉とはまったく違う、もう一つの世界を空間に刻むことができる。身体が空間にむかって開かれたとき、全く別な世界があらわれる。そこで語られる世界が、『身体の声』と私がいうものである。」
 「…少なくとも舞踊が身体の声であるという点から見れば、私には、日本の舞踊はむろんバレエもモダンダンスも前衛舞踊も、舞踊というものはたった一つ、身体の声の聞こえてくるものであって、そのかぎりにおいて世界の領域が確定する。」

 「身体の声」は果たしてどこから生じるものなのだろう。
 素人なりに考えれば、それは踊り手の身体がある「形状」を示し、そこから異なる形状、異相へと移行する、その一連の動作の連なりの「間」にひそんでいるものと言えるのではないか。
 俳優の発する台詞が、1音、1音がつながって言葉となり、それが連なることで意味を帯びるように、またさらには、ピアニストの指先がピアノの鍵盤を叩き、そこから発せられる1音、1音が連なることではじめて美しい音楽が生み出されるように。
 無論そこには稚拙な台詞回ししかできない俳優や、聞くに堪えない騒音を奏でるピアノ奏者がいるように、ただのぎくしゃくとした体操としか見えないダンサーもいることだろう。
 だが、本当に「身体の声」が聞こえるためには単なる舞踊技術の巧拙を超えた何か……、秘密があると渡辺保氏は言っているようだ。
 「…どんなしなやかな身体も、それが声を上げ、身体の声を語らないかぎり石のように堅く見える。その石であることを知らずに踊りつづけている舞踊家がいかに多いことか。」

 この日、はたして私は「身体の声」を聞いただろうか。
 それは言わぬが花としておくが、記憶に残る、楽しむことのできた作品のあったことは記録しておきたい。

 


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