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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

当事者の視点でカフカを読む

2022-04-06 | 読書
若い頃にカフカの「変身」を読んだとき、これは社会に適応できなくなった一人の青年の精神の変容=自閉症状あるいは引きこもりの状態を、それを見守る家族の視点から描いた小説ではないかと感じたものだ。
それから幾年月を重ねて自分の親世代が老年となった時には、あの家父長的な力強さを見せていた親が要介護状態に「変わり果てた」現実を目の当たりにした頃にもう一度読んだときには、これは卓抜な「介護小説」であるという感想を持った。
さらに時を経て、自身の身体が以前のようには動かせなくなり、筋力の衰えや関節の痛みを全身に感じるようになった今、主人公グレゴール・ザムザはまさに自分自身のことのように思える。「変身」は、今や私にとって実に切実な小説になったのである。

もちろんその時々の読み方が絶対的に正しいと言い切れるはずもなく、自分勝手に小説を読んでいただけなのだが、読んだ時期や環境によって読み方や理解の仕方が変わっていくというのは仕方のないことであるようだ。
小説を批評的に読むか、自分の人生に重ね合わせるように読むか、それは人それぞれ、その時々によって異なるだろうが、いずれにせよ、普遍寄りの観念的な読みではなく、身体的・精神的な苦痛や病状を基盤として「当事者批評」的に読むことで、文学・芸術をより深く切実に多様に読むことが出来る……

と、これは、文芸誌「文學界3月号」の“ケアをめぐって”という特集の中で、頭木弘樹、斎藤環、横道誠の三氏による「『当事者批評』のはじまり」という鼎談のテーマでもあるのだが、三氏の話に刺激を受けながら、当事者としての視点から文学作品を読むことの重要性といったことを考えたのだった。

その中で、斎藤環氏が頭木氏の著作「食べることと出すこと」を引用しながら次のような話をしていて、なるほどと思ったものだ。
「……健康な人の身体って透明なんですよね。特に健康な男性は、自分の身体をほとんど意識することがない。女性は月経のほか、便秘、頭痛といった不定愁訴を頻繁に抱えているので身体意識が高いんですが、健康な男性ほど身体は透明化している……」

この「透明化している云々」という言葉に、つくづく思い当たる節があるなあと思ったのだが、若く健康であった頃、たしかに自分の身体は透明であったし、さらに言えば重力すら感じてはいなかった。つまり意識してはいなかった。肉体のどこにも痛みなど感じることはなく、あるとすればたまにトレーニングのやり過ぎで筋肉に脹れやしこりが生じた時くらいなのだが、そんな痛みは一晩眠れば消えてなくなっていたのだ。身体はあくまで軽く、駅やビルの階段など、二段飛ばし、三段飛ばしで駆け上がって息切れすらしなかった。
まさに軽薄そのものなのだが、身体的《無意識過剰》状態だったのであり、そのぶん他人の痛みにも無頓着で同情がなかったのである。

それが次第に年齢を重ね、うかうかするうちに老いのけはいといったものを感じるようになると、筋肉の回復は遅くなり、身体の節々に痛みを抱えることが日常的になる。身体全体に重みを感じるようになり、さらに病を得て、治療に伴う痛みすら抱え込むようになると、否が応でも自分の身体に絶えず向き合うことを余儀なくされる。

これを「身体の意識化」と言ってもよいのかも知れないが、ここに至ってようやく私≒私たちは、こうあるべきはずと思い描く自分と現実の自分とのギャップに気づくのである。
このギャップあるいは落差、差異を意識化することが、文学や芸術作品を読み、感受し、批評する時の一つの拠り所になるかも知れない、というのが、鼎談「『当事者批評』のはじまり」を読んでの素朴な感想である。
もちろん読み方や感じ方、批評のあり方も様々な視点があることは当然なのであるが。

このほか鼎談では、カフカの「変身」のほか、大江健三郎の初期作品「鳥」や中期の「新しい人よ眼ざめよ」、村田紗耶香「コンビニ人間」等についての言及があり、「当事者」の視点からの読み方などが紹介されている。
実に興味深く、刺激的な論点に満ちた鼎談であると感じた。


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