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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

機械じかけのピアノ

2010-10-11 | 演劇
 歳のせいにはしたくないのだけれど、最近は何かというと疲れた疲れたと楽をする言い訳ばかりを考えている自分がいて我ながらいやになってしまう。
 気がつけばこのブログもひと月以上ご無沙汰状態だった。
 この2週間ほどは、池袋周辺の地域に関連する文化事象の過去100年の年表をひょんな思い付きで作り始めたら、これが思いのほか面白くて止められなくなってしまった。
 おかげで目の疲労、肩凝りが思いのほか祟ってパソコンのキーボードにはアレルギーが生じている。まあそればかりが理由ではないのだけど、書く、というモチベーションがいつになく低下していたのは確かだった。

 これは自分のためのメモ集成なのだから、そうと割り切って書けばよいのだ。ほとんど備忘録か、ただの日記状態になるのは仕方がない。

 昨日10日は朝からあちらこちらとハシゴをして回った一日だった。
 午前中は雨が心配されたが、10時から大塚駅前と池袋本町の商店街イベントのオープニングに顔を出し、そのまま歩いて東池袋の「あうるすぽっと」に行き、午後2時からの劇団昴公演「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」を観た。
 その後、池袋西口一帯で開催されている「東京よさこい」の本部席に座って、しばしソーランのお囃子に包まれた。それから九段下に出てオフィス・パラノイアが靖国神社で開催している舞踊劇「遊びの杜」を観劇。一転こちらは静謐な世界だ。
 帰宅して万歩計を見たらちょうど1万6千歩だった。結構歩いた気でいたのだが、そんなものなのだ。

 さて、「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」だが、ニキータ・ミハルコフ監督の映画作品を私は劇団昴が千石にいたころの300人劇場で観ている。
 素晴らしい映画で、チェーホフものの作品としては映画・演劇を問わず最高のものだと思う。その後、マストロヤンニが主演した、「犬を連れた奥さん」が主要なモチーフになった「黒い瞳」なんて傑作もあったが、チェーホフ的気分とでもいうものを存分に味あわせてくれる点で「機械じかけのピアノ」にはかなわないだろう。
 さて映画と今回の舞台を比べてしまうのはいかにも乱暴だし、ないものねだりになりかねないが、やはり何かが決定的に足りない、欠けている。
 最大の課題はプラトーノフに観客が感情移入できるかどうかだろう。その結果についてここでは書かない。
 それにしてもプラトーノフは齢35歳にしてすでに人生に置いてけぼりにされたと思っている。
 この映画を観たとき、私はまだ20代だったからそれほど違和感はなかったのだが、この歳になってみればそれはいかにも若すぎやしないかと言いたくなる。
 もっとも「機械じかけ・・・」のもとになった「プラトーノフ」を書いたとき、チェーホフはまだ若干21歳の医学生だったのだから無理はないのかも知れないのだけれど。

 今回の舞台の収穫はアンナ役を演じた一柳みるの演技だろうか。
 このアンナの役はチェーホフ劇のたとえば「桜の園」のラネーフスカヤや「かもめ」のアルカージナ、「ワーニャ伯父さん」のエレーナといった役どころのエッセンスが詰まった役だと一柳みる自身も終演後のトークショーで語っていたが、その造型はこの数年間に私が観たさまざまなチェーホフ劇の中でも優れたものだと思う。


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