大日本帝国が解体されました。
マッカーサーがやって来た
敗戦間もない1945(昭和20)年8月30日、神奈川・厚木飛行場にコーンパイプをくわえた一人の男が降り立った。連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーだ。敗戦で日本は連合国軍の占領下におかれた。マッカーサーは東京に総司令部(GHQ)を置き、「5大改革」指令を出して、日本政府に婦人解放や教育自由化、労働組合結成などを求めた。さらに、象徴天皇制・戦争放棄などを盛り込んだ「マッカーサー草案」を示して新憲法制定をリードした。一方、昭和天皇は敗戦の翌年、「人間宣言」で自らの神格を否定し、全国各地を視察する「巡幸」を始めた。
進駐連合軍旗
本格的に連合軍が上陸した地点は、青森県9月25日 北海道函館市10月1日 釧路・室蘭と続きました。
写真
1945年12月 サハリン州「樺太」から引き揚げて着た日本軍「函館港」
連合国軍占領下の日本(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)は、第二次世界大戦における日本の敗戦からサンフランシスコ講和条約締結までの約7年間、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の占領下に置かれた日本である。
占領の形態について戦時占領説、保障占領説、特殊占領説がある。連合国は日本の占領を戦時占領とも保障占領ともとれる扱いを行っており、純粋な戦時占領や保障占領ではない特殊占領であるという見方が多い[1]。
強姦行為[編集]
詳細は「占領期日本における強姦」および「戦時における強姦行為」を参照
1945年、沖縄戦の際、一部のアメリカ軍将兵が沖縄の女性を強姦したという主張がされている。また、神奈川県においては占領開始から10日間で1,336件の強姦行為が報告されている[71]。
沖縄の歴史家(元沖縄県立博物館館長)大城将保は数年の研究結果に基づいて以下のことを述べている。
本部半島がアメリカ海兵隊員が上陸した直後、本部半島の全ての村落の女性がアメリカ軍将兵の手に落ちた。そのとき、全ての青年たちが戦争に動員されていたため、村には女性、子供、高齢者のみしかいなかった。上陸後、海兵隊員は全村を掃討したが、日本軍の痕跡を見つけることができなかった。この状況を利用して海兵隊員は真昼間から「女性を捜し」始め、村またはその周辺の防空壕に隠れていた人々は次々と引きずりだされた[72]。
ソビエト赤軍[編集]
カチンの慰霊碑
「ソビエト連邦による戦争犯罪」も参照
ソビエト連邦は当時、捕虜の扱いについて規定した国際条約、俘虜の待遇に関する条約に調印していなかった。このことにより、ソ連による枢軸軍将兵捕虜の扱いが戦争犯罪と規定すべきかどうかについての疑いを投げかけることになったが[6]、捕虜は「ジュネーブ条約などまったく顧慮しない扱いを受けていた」ため、何十万名もの捕虜の死を引き起こすこととなった[7]。しかし、ニュルンベルク裁判においては捕虜の待遇に関するハーグ陸戦協定(1929年に結ばれたジュネーブ条約はこれに代わるものではなく、内容を追加しただけである。そしてハーグ協定は、1929年の条約とは違って、ロシア帝国も批准していた。)やその他の慣例による戦時国際法がすべての国に拘束力があると判断、一般的議論であるとして戦時国際法の適用を主張した[8][9][10]。ソビエト連邦は枢軸国の将兵や民間人だけではなく、ポーランドを占領するとまもなくカティンの森事件などでポーランド人将校や民間人などを大量虐殺した。
ベルリン市街戦の後[11]やプロイセン州東部(ダンツィヒ)[12][13][14][15]、ポメラニア、シレジアを占領している間にソビエト赤軍により大規模な強姦等、戦争犯罪が行われた。
写真 カチンの慰霊碑