プロ野球各球団のドラフト外選手一覧と、一軍全成績を紹介するシリーズの第6弾は「オリックス」です。
88年までは阪急でした。
ドラフト外で入団した選手は総勢50名。70年代半ばまでは少ないように感じますが、
当時の阪急は毎年のように優勝争いに加わるなど戦力的にも球界トップにあり、
ドラフト外選手を育てたり、抜てきする必要性がなかったからかもしれません。
年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
一軍経験者は24名と、ほぼ半数が一軍昇格を果たしています。
まずは野手。投手を含めても、最大の成功者は松永浩美でしょう。
高校中退後、テストを受けてのプロ入り。1年目は練習生扱いのため、
形式上のプロ人生スタート(支配下登録)は79年となります。
スイッチヒッターとして左右にヒットを量産し、打率3割を記録すること実に7度。
盗塁王、最高出塁率のタイトルを獲得したほか、ベストナイン5度と球界を代表する三塁手として君臨。
2000本安打まであと一息でした。
続くのは河村健一郎。正捕手には手が届かず、控え捕手や代打での起用がメインでしたが、
79年、80年には2年連続で二ケタ本塁打をマークするなどパンチ力を活かして存在感を見せました。
打撃コーチとしても優秀で、イチローの育ての親としても知られています。
福原峰夫は84年に120試合に出場。リーグ優勝に貢献するなど二塁のレギュラー目前に迫りました。
その後も内野の守備固めとして、陰ながらチームを支えています。
引退後は韓国プロ野球を含め、7球団でコーチを務めました。
村上信一は代打、代走、守備固め、ときおりスタメンとさまざまな形で起用されました。
激しいレギュラー争いの前に定位置獲得にはもう一歩届かなかったものの、
90年には112試合に出場し、規定不足ながら打率3割をマークしています。
藤本昌治は81年に68試合に出場も、一軍には定着できませんでした。
引退後は小寺姓となり、審判に転向。ダイナミックなアクションで知られました。
高嶋徹は主に控え捕手として、12年間にわたり現役生活を送っています。
94年には自己最高となる58試合に出場しました。
別府修作は現役の大半を二軍で過ごしましたが、引退後はブルペン捕手を経て、
現在もコーチとして若手を指導しています。
葉室太郎、杉本尚文は正捕手どころか一軍定着すら叶わなかったものの、
現在もスタッフとして陰からチームを支えています。
一方の投手でまず名前が挙がるのが児玉好弘。1年目に6勝、2年目に10勝をマーク。
常に優勝を争う強豪チームにあって、リリーバーとして連覇を支えました。
清原雄一は1年目にいきなり一軍昇格を果たし、プロ初勝利をマーク。その後も貴重な左の中継ぎとして起用され、
95年にはキャリアハイとなる43試合に登板。リーグ優勝に貢献しています。
谷良治は1年目から中継ぎに定着し、84年のリーグ優勝に貢献したほか、
86年には7勝をマークする活躍を見せました。現在は関東学園大野球部の監督です。
小嶋正宣は強豪社会人チーム出身とあって即戦力として期待され、
1年目から先発に加わるといきなり6勝をマーク。その後は主にリリーバーを務めています。
原田賢治は1年目から一軍に定着し、87年、88年は2年続けて23試合に登板し、3勝をマーク。
三枝規悦は78年に4勝をマークしてリーグ優勝に貢献。中日移籍後はゼロ勝に終わっています。
88年までは阪急でした。
ドラフト外で入団した選手は総勢50名。70年代半ばまでは少ないように感じますが、
当時の阪急は毎年のように優勝争いに加わるなど戦力的にも球界トップにあり、
ドラフト外選手を育てたり、抜てきする必要性がなかったからかもしれません。
年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
一軍経験者は24名と、ほぼ半数が一軍昇格を果たしています。
まずは野手。投手を含めても、最大の成功者は松永浩美でしょう。
高校中退後、テストを受けてのプロ入り。1年目は練習生扱いのため、
形式上のプロ人生スタート(支配下登録)は79年となります。
スイッチヒッターとして左右にヒットを量産し、打率3割を記録すること実に7度。
盗塁王、最高出塁率のタイトルを獲得したほか、ベストナイン5度と球界を代表する三塁手として君臨。
2000本安打まであと一息でした。
続くのは河村健一郎。正捕手には手が届かず、控え捕手や代打での起用がメインでしたが、
79年、80年には2年連続で二ケタ本塁打をマークするなどパンチ力を活かして存在感を見せました。
打撃コーチとしても優秀で、イチローの育ての親としても知られています。
福原峰夫は84年に120試合に出場。リーグ優勝に貢献するなど二塁のレギュラー目前に迫りました。
その後も内野の守備固めとして、陰ながらチームを支えています。
引退後は韓国プロ野球を含め、7球団でコーチを務めました。
村上信一は代打、代走、守備固め、ときおりスタメンとさまざまな形で起用されました。
激しいレギュラー争いの前に定位置獲得にはもう一歩届かなかったものの、
90年には112試合に出場し、規定不足ながら打率3割をマークしています。
藤本昌治は81年に68試合に出場も、一軍には定着できませんでした。
引退後は小寺姓となり、審判に転向。ダイナミックなアクションで知られました。
高嶋徹は主に控え捕手として、12年間にわたり現役生活を送っています。
94年には自己最高となる58試合に出場しました。
別府修作は現役の大半を二軍で過ごしましたが、引退後はブルペン捕手を経て、
現在もコーチとして若手を指導しています。
葉室太郎、杉本尚文は正捕手どころか一軍定着すら叶わなかったものの、
現在もスタッフとして陰からチームを支えています。
一方の投手でまず名前が挙がるのが児玉好弘。1年目に6勝、2年目に10勝をマーク。
常に優勝を争う強豪チームにあって、リリーバーとして連覇を支えました。
清原雄一は1年目にいきなり一軍昇格を果たし、プロ初勝利をマーク。その後も貴重な左の中継ぎとして起用され、
95年にはキャリアハイとなる43試合に登板。リーグ優勝に貢献しています。
谷良治は1年目から中継ぎに定着し、84年のリーグ優勝に貢献したほか、
86年には7勝をマークする活躍を見せました。現在は関東学園大野球部の監督です。
小嶋正宣は強豪社会人チーム出身とあって即戦力として期待され、
1年目から先発に加わるといきなり6勝をマーク。その後は主にリリーバーを務めています。
原田賢治は1年目から一軍に定着し、87年、88年は2年続けて23試合に登板し、3勝をマーク。
三枝規悦は78年に4勝をマークしてリーグ優勝に貢献。中日移籍後はゼロ勝に終わっています。
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