いくつかの場面で「野次と罵声の中で 司会者に呼び戻された」歌詞の意味がわかりました。
昨日、初めての方からブログにコメントを頂きました。それが、2016年12月のブログへのコメントで、5年も前のブログに今頃 何で?と、思わず不安を感じてしまいましたが、それは違っていました。ジュリーファンにとって、大変に有難い情報をお寄せ下さっていたのです。
コメントを下さったのは、ムラさん⇒いくつかの場面(2016-12-29 )
以下は、2016年12月のブログを要約しました。
『いくつかの場面は河島英五さんがジュリーの為に書いた曲ですよね? ずっ〜〜と前に、河島さんの娘のあみるさんが〔いくつかの場面〕は沢田さんもカバーされてます〜と言われてたので… 河島英五さんの曲なんで、カバーには違いないですが。ファンとしては大きく違うように思ってしまいます。』というコメントを2016年に頂きました。
もちろん「いくつかの場面」はジュリーが河島さんの曲をカバーしたのではない、ジュリーの為の曲だと信じています。
実際、河島英五さんは、1975年4月「何かいいことないかな」でレコードデビュー。デビュー間もない河島英五さんのこの曲を、ジュリーはとても気に入りレコーディングしたということです。』
これに対して、「ジュリーの為の曲です、ジュリー自身がそう話していました」「ジュリーが、河島さんが、とっても いい曲を書いてくれたと話していました」「河島さんが、この曲はジュリーにプレゼントした曲ですと言っていました」等、沢山のコメントを頂きました。それは間違いない、しかし世間はどう思っているのか、ファンだけがそう言っているのはスッキリしない('_')・・と思う気持ちは片隅に残っていました。
昨日、2016年のブログにコメントを下さったムラさんは、河島英五さんのファンの方です。読んでいて、河島さんご自身のエピソードに胸がつまる想いがしました。太平サブローさんも「いくつかの場面」をCDで発売されています。
いくつかの場面 (ムラ)
2021-03-18 01:39:02
こんにちは、英五さんのファンです。
来月、京都で催される河島英五展のイベントの1つに 太平サブローさんも参加され歌われるというので、英五さんとサブローさんの関係について検索していて ここにたどり着きました。
結論から言って「いくつかの場面」は、沢田研二さんに提供した歌だと 英五さん自身がライブで何度も言われながら唄われていましたので 決してカバー曲ではありません。あみるさんがまだ生まれる前の話ですから 多少は大目に見てあげてください。
ただ歌詞の中にある『野次と罵声の中で司会者に呼びもどされた』というのは英五さんの実体験です。
グループで活動していた1970年頃、岡林信康さんのライブの前座として出演された際に(どういういきさつか忘れましたが)楽器のチューニングが合ってなくて そのまま歌っていたら会場から「帰れ帰れ」コールがわき起こり、マイク等の電源を切られ 司会者に呼びもどされたという話です。
ジュリーがライブで「いくつかの場面」を唄う映像等を見たことがありますが、感極まっているシーンではこちらも胸が熱くなります。』
私は、「野次と罵声の中で司会者に呼び戻された 苦い想い出のある町」という歌詞を聴くたびに、ザ・タイガース解散後のPYG時代に、ジュリーたちが観客から帰れコールを浴びたシーンを思っていました。(ただ、司会者に呼び戻された、というのはどういう事なのか?という小さな疑問はありましたが)
ジュリーの音楽人生で、それまでに辿ったいくつかのシーンが、ドラマチックに交錯する歌詞。ジュリーに関わった多くの人たちと多くの思い出が、歌うジュリー自身を取り囲む。まさにジュリーを描いた、ジュリーの為の曲と思っていますし、これからもそうですが、河島さん自身の苦い思いが投影されていた歌詞であったのですね。
ジュリー祭りの感動が蘇ります。歌い出しの「いくつかの場面があった・・」歌い出しの声を聴いただけで、胸が震えました。
そして、若く美しい1975年のジュリーの「いくつかの場面」をアルシオネさんが⇒「愛をもとめて♯いくつかの場面」1975年12月1日放送
2016年のブログのコメ欄に書いて下さったのは、☝この放送で話していることですね。ジュリー『河島英五さんがハートがある歌を作ってくれた、・・後半むせび泣いております。大野さんがよしとして、泣いているところを出すことになった』
太平サブローさんがこの曲をカバーされたのは、もちろん サブローさんの芸人人生の辛い時期ともリンクする曲だったからだと思います。太平サブローさんはNHKの大阪局で「ぐるっと関西おひるまえ」という情報番組を、河島英五さんの娘の河島あみるさんと二人で、もう長く続けています。カバーされたのは、そういう二人の関係も有ったのかも知れません。
>「河島英五ってジュリーの事よう知ってるね!」と「ファンかも?」などといっとりました。ちなみに「怒りに顔引きつらせ去っていった」はトッポの事「喜びにくしゃくしゃ」は危険なふたりの歌謡大賞の時.など勝手に想像しては盛り上がってました)
もちろんファンは、さまざまに思いを巡らせて、誰もが同じように思っていたんじゃないでしょうか。
「河島英五さんはジュリーのことをそのまま歌詞に書いて下さった!」聴くたびに、ジュリーのそれまでの平坦ではない音楽人生を振り返り、泣ける想いをしたのは私だけではないでしょう。
>『村田投手の引退特番ドキュメントで「いくつかの場面」が流れました。但し歌詞が「いつも何かが歌う事を支え」が「いつも何かが投げる事を支え」に変えて河島さんが番組用に録音し直ししたバージョンでした。』
村田選手は、当時日曜日に登板するたびに勝敗を気にしていました。ロッテファンでは有りませんが、村田投手は特別です。河島さんとのエピソードは知りませんでした、ジンとする良いお話ですね!「いくつかの場面」はすでにジュリーだけのものではない、普遍的な拡がりを持つことが出来る名曲だという事でしょうか。もちろん、ジュリーファンはジュリーの為の曲と信じています(^-^)
振り返りますれば.このアルバム発売当時.よくタイガースのシングル盤(当時既に廃盤だった)や明治チョコのピクチャーレコードを貸してくれていた同級生H君のお姉さんが「タイガースだけじゃなくて今の沢田研二も、いい歌出してるとよ!」と、貸してくれたのが「いくつかの場面」でした。問題の「野次と罵声のー」歌詞については.丁度その頃吉田拓郎氏のオールナイトニッポン(確か水曜レギュラー)の「解散グループ特集」(密かにタイガースやGSの曲を期待したがGSは1曲もかからず)のオープニング曲が「花太陽雨」で、拓郎氏が「沢田研二とショーケンのツインボーカルという夢のスーパーグループだったけど、日比谷野音のロックフェスかなんかで「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールにやられていたなあ(後年上田正樹のラジオでジュリー自身が語った「そんないややったらおまえらが帰れ!」と怒鳴ったり客席に背中向けて演奏したりしていたという話を知ったのは後の事だったからピッグがそこまで弾かれていたとは当時小生不知でした)と話していたのを聴いていたのもあり小生も、てっきりその頃の事を詩にしたものだと思い込んでました。(H君のお姉さんとも意見は一致し「河島英五ってジュリーの事よう知ってるね!」と「ファンかも?」などといっとりました。ちなみに「怒りに顔引きつらせ去っていった」はトッポの事「喜びにくしゃくしゃ」は危険なふたりの歌謡大賞の時.など勝手に想像しては盛り上がってました)
余談ですが河島英五さんはプロ野球ロッテオリオンズの大エース村田兆司さんのファンで、村田投手の引退特番ドキュメントで「いくつかの場面」が流れました。但し歌詞が「いつも何かが歌う事を支え」が「いつも何かが投げる事を支え」に変えて河島さんが番組用に録音し直ししたバージョンでした。ジュリーの「いくつかの場面」を知らないプロ野球ファンは、この歌は村田投手に河島さんが捧げた歌だとおもいこんだんでしょうなぁ(実際小生の友人にもそういう奴がふたりほどおりました。「河島英五がジュリーとかに歌とかつくらんやろう!」「ショーケンと勘違いしとるやろ?飲んでー飲んでー飲まれて飲んでーはジュリーやなくてショーケンやったろが?!」(それくらい知ってるわぃ!と思いながら、実際のジュリーの「いくつかの場面」聴かなわかってもらえんわな
---と諦めた謙ちゃんの淋しい思い出話でした。