一昨日だったか、ラジオ関西の長寿番組「歌声は風にのって」で、上田正樹さんの「悲しい色やね」が流れました。随分久しぶりに聴きましたが、この曲のジャンルって何?ロックじゃないやろ、演歌か、ブルースか・・ まとわりつくような巻き舌の上田さんのボーカルが哀切で、雑多な町の大阪の日頃は猥雑過ぎて品が無い、とも思える町の灯が、急に美しく脳裏に浮かびましたわ。こういう時の、女の子の大阪弁はいじらしくて可愛い。。と思える。
澤ノ井謙さんから、以前にコメント欄にいただいた、1977年(勝手にしやがれで大ヒット中)のジュリーと、「悲しい色やね」の上田正樹さんのラジオでの対談です。澤ノ井さん、随分後になりましたが、有難うございます。
(※下に追記しました)
1977年6月、国営ラジオ放送「若いこだま」DJ上田正樹、ゲスト沢田研二氏
上田:今夜はすごいゲストです。
沢田氏:今晩は、沢田研二です。
上田えー、東田町の沢田さんで、
沢田氏:(笑い声)西田町でしょ?
上田:電車道挟んで西田町ですわ。
沢田氏:以前上田正樹とサウストゥサウスやってた頃に昔.家が近所やったって聞いて、お互いこんな風になるなんてねぇ
上田:昔一緒に遊んでいた頃.研二って呼ばれてました?
沢田氏:えっ?
上田:確か、ブンキチって呼んでましたよね?
沢田氏:えっ?おれの事?.....アーそう言えば、そんなふうに呼ばれてたっけ!
上田:テレビでタイガース視たとき.アーあの東田町の人やってすぐわかったよね
沢田氏:(笑)
上田:で、なんかのテレビの収録でタイガース見に行って、楽屋に入れてもらって話したんですわー確かヤングセブンなんとかって番組で、
沢田氏:アーヤング720かな?
上田:そうそう!
沢田氏:(申し訳なさそうに)そん時.俺.知らん顔してなかった?
上田:いやいや、昔近所で遊んで、覚えてる.覚えてる!って話しましたよ!
沢田氏:あっそう!でも俺そん時の事忘れてるわ、
上田:他のメンバーもみんな京都市でしょ?
沢田氏:うん.でも他のメンバーは右京区や、僕だけ左京区でね、
上田:今でもたまに逢ったりしますの?
沢田氏:うん.サリーとかタローとか.たまに逢うけどね、でも今でも音楽やってんのは加橋かつみだけで(北島三郎事務所で演歌で再デビューした頃かな?)後は、学校の先生になるらしいという瞳みのるとか
上田:えっ?学校の先生?
沢田氏:うん.最初に慶応大学入った時に.みんな「どうせすぐやめるんちゃうか」って言うてたんやけどきちんと大学卒業して今、大学大学院行ってるらしいんよね
上田:えっ?ケィオウ?慶応大学行ってはったんですか?
沢田氏:そうなんよねぇ、慶応大学やから.そんな簡単に入れるとこやないよ!
上田:そりゃそうや!すごいなぁ
※(追記)
番組内でジュリーがリクエストしたのは、ストーンズのホンキートンクウィメンと、ビートルズのLucyIntheSkywithDiamond。ストーンズのは詠めてましたけど、ビートルズのこの曲がくるとは当時意外でした。
また対談の中でPyG時代の事も少し話してました。合同ロックフェスティバルに出た時に、生粋の純ロックファンから反発くらい、ヤジはとんでくるわモノはとんでくるわ(ショーケンが後日語った内容だとく腐ったトマトやら生卵が実際にとんできたとか)
そんな中で「そんなにいややったら、お前らが帰れ!」と客席に怒鳴ったり、わざと客席に背中向けて演奏したりしていたとかーーーーー当時ジュリーがピッグ時代の話をすることなどまずなかったのでとても印象に(ピーが慶応の学生である事と同じくらい)残り、何回も録音テープ聞き返しておりました。
ちなみにタイガース解散後の後追いファン歴2年足らずだった小生は、ピーが慶応大学でそういう道を歩んでいることは、この時初めて知りました。
この放送から6年後.上田正樹さんが「悲しい色やね」の大ヒットでブレイクしてテレビで見た時、思わず「アッ、西田町の人や!」とつぶやいてしまい、一緒にテレビ見てた友人から「お前いつからそんなに上田正樹のファンやった?」といぶかしがられたもんでした。(澤ノ井さん、談)
え~っと、上田正樹さんはこの1977年のときには「悲しい色やね」のヒットをまだ飛ばしていない時だったんですね。ではこの時にはどういう立場だったのか?あの「勝手にしやがれ」が1位を飛ばしている絶頂期のジュリーを、ゲストに呼べるほど、すでに有名だったんですね?wikiで調べたら、上田さんのジャンルはソウルミュージック、ファンクと書いてありました。
上田さんと言うと、ジュリーのMCで語られたことがありました。2012年10月19日 長岡京記念文化会館でのジュリーのライブ。京都会館は建て直し中でした。 ①「カガヤケイノチ」長岡京
以下、2012年の長岡京記念文化会館のライブでのジュリーのMCを、一部アップ
✿ 長岡京のジュリーのMCでは姫路市がジュリーの口から、何度も連呼されたんです。H市出身のわたくしとしましては、大変に嬉しい~(^^♪
子供時代のジュリーは上田正樹のお兄さんの子分で、ブンキチと呼ばれていて、家庭の事情で上田正樹は、姫路市の親戚の家にあずけられていたとか。 ある日、京都から姫路まで上田さんのお兄さんと、上田正樹に会いに行ったそうです。そこで、三人の誰かが肥溜めに落ちた!(笑)
もう上田さんのお兄さんは亡くなっているそうだけど、後で上田正樹から「ジュリーさんが落ちたんですね」と言われたそうですが、記憶力がいい自分が覚えてないんだから、二人のうちのどちらかに違いない・・ とジュリーは言っていました。
※京都から姫路に行くには、1960年代くらいでは相当の時間がかかったと思います。今は二時間かからないくらい。そして、当時は農村部には肥溜めは普通にありました。必ず落ちる人がいる。(笑) でも落ちたら生死にかかわることだってあるんですよー。
1977年6月の対談から、わずか5ヶ月後、上田氏は大麻で逮捕されました。
※1977年11月16日の大阪の夕刊紙
裕也さん、井上陽水さん、桑名正博さんらが逮捕され、ジュリーまで疑われて大変迷惑しました。「落選すれば疑惑が増す」💦(-_-;)
ジュリーの上記のMCのあった、2012年10月19日 長岡京記念文化会館ですが、今も覚えているのが、古そうな会館に「長岡京市は細川ガラシャの町、大河ドラマにしよう!」とポスターが貼ってありました。悲劇の細川ガラシャでは、ちょっと主役は難しいわね('_')
と思っていたんですけど、今夜最終回だった「麒麟がくる」では、主役の明智光秀の娘ですから、出番が多くて良かったんじゃないでしょうか。しかしコロナのせいで、観光はあかんかったでしょうが、長岡天神の真っ赤なつつじはとても綺麗です✨
芦田愛菜ちゃんが演じる、たま。
「麒麟がくる」最後の天王山の山崎の合戦が、あっさりナレーションですまされてしまい、物語は急に3年後。え~~っ! こういう描き方もあるのかと、色々と新しい解釈の大河ドラマでした。
「麒麟がくる」は光秀が負けた山崎の合戦が描かれず、光秀が馬に乗って走り去ったラストに生存の可能性を見せて、新しかったです。他にも歴史の新解釈がいっぱいでした。
1977年の大麻騒動は、週刊誌などが大騒ぎでした。アップした記事のとうり、これからレコード大賞を目指すジュリーには、大迷惑でした。
林哲司さんはこの頃、ヒットメーカーでしたからね。
しかし上田正樹さんとジュリーが子どもの頃から接点があったんですね!!
上田正樹さんとご近所さんだったのですね。
その頃の京都に行きたいなあ~!!
私が子供の頃に通っていたピアノの先生の旦那様が、上田正樹さんとお友達だったらしく、
先生のお宅には『悲しい色やね』のシングルレコードが、ダンボールにいっぱいありました。
懐かしい思い出がよみがえりました。
ジュリーとは違うジャンルのように思える上田正樹さんが、ジュリーと子供時代からの縁があるとは思いませんでしたね。
「悲しい色やね」の作曲家の林哲司さんは、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語」の作曲者で、ヒット曲も多数、80年代を代表する作曲家のお1人ですね。「悲しい色やね」は、シティポップとは違うように思いますが、大阪を歌った関西人には忘れられない1曲です。(^-^)
>『オールナイトニッポンミュージックテン、森山良子さんの音楽玉手箱のアルバム紹介。』ジュリーの「おもいきり気障な人生」をかけてくださるのですか?楽しみですね~!!(^-^)
上田正樹さんは姫路の親戚に預けられていて、上田さんのお兄さんの子分だったそうです。ブンキチについてMCでジュリーが話していました。
>『私が子供の頃に通っていたピアノの先生の旦那様が、上田正樹さんとお友達だった』
おやま~!奇遇です(^-^) 段ボールいっぱいのレコードがお二人の友情を物語っていますね!
さて「勝手にしやがれ」で飛ぶ鳥を落とす勢いのジュリーが当時メジャーヒットもない上田正樹さんの番組に何故(?_?)という点は放送当時.小生も正直思いました。後年あの加瀬さんが語ってましたけど「あの年は特にマネージャー(森本精人さんかな?)に、とにかくテレビやラジオの仕事を沢山とるように、今までは出なかったような番組もどんどん取ってこいって言った。ファン以外の人に「ジュリーって、こんな事しゃべるのか」「こんな事考えてるのか」と気づいてもらう機会を作りたかった。」ここから先はいつもの素人推量ですが、加瀬プロデューサーとしては、前年の謹慎事件のイメージ払拭と同時に捲土重来で、この年レコ大はじめ念願の「一等賞総ナメプロジェクトへの仕掛けとして、ファン以外のグレーゾーンの人々、いわゆる一般大衆の関心や共感や理解をどれだけ多くゲットできるかという視点からメディア媒体への積極的参画作戦に出たのではないでしょうか?当時民放二局しかなかった長崎でも確かにジュリーをテレビラジオで見る聞く機会は、確実に増えて「エー(゚Д゚)こんな番組にもジュリー出てるでぇ!?」という記憶があります。三波伸介さんの「お笑いオンステージ」しかりエドウィンの「テレビジョッキーしかり関テレ土曜7時の「ズバリ当てましょう!」(「勝手にしやがれ」のテレビ歌唱初公開オンエアは長崎ではこの番組でした。).毎日放送の「ぴったしカンカン」しかり-―この放送よく覚えてますけど、本来シークレットゲストのはずなのに、客席はジュリーファンで占拠されており(確か番組観覧は葉書募集の公募抽選だったはずですが、あの武道館の歌謡大賞の時と同じ手法(後にチェッカーズが最後の紅白出場の時にファンの人々がやったとされる)を使ったのでしょうか?、恒例「一枚の写真」でジュリーが登場した時の会場客席からの黄色か赤かわからんような大歓声でまるでライブハウスのような大騒ぎで、久米宏さんが「この番組スタートして2年ですが番組はじまって以来の大変な事態になっております!と思わず言ってました。現場のスタッフさんも、完全に想定外だったらしく、最後のゲストが歌う曲のカラオケの音量をいつものゲスト並の大きさ(いわゆる小スタジオの公開放送レベル)でセッティングしていたらしく、いざ「勝手にしやがれ」のイントロがはじまったら、当然スタジオ内はミニライブハウス化し声援と手拍子の嵐!そんな中.歌ってるジュリーの耳にカラオケ音が聞こえるはずはなく、あの振り付けしながら、片手でミキサースタッフに「もっと音量上げて!」.もう片方の手で客席に「手拍子と声援をやめて!」とジェスチャーで必死に訴えながら歌ってましたっけ、。
と、また話が脱線しましたが、要は、加瀬プロデューサーの企画した「メディアの仕事は垣根作らず何でもやる!精神でジュリーは走り今回の上田正樹さんのしかも国営放送夜10時20分「若いこだま」とかいうマイナーな番組に出演したのも、その流れの一環ではなかったのでしょうか?
当該番組についての追記
番組内でジュリーがリクエストしたのはストーンズのホンキートンクウィメンとビートルズのLucyIntheSkywithDiamond(ストーンズのは詠めてましたけどビートルズのこの曲がくるとは当時意外でした。また対談の中でPyG時代の事も少し話してました。合同ロックフェスティバルに出た時に生粋の純ロックファンから反発くらいヤジはとんでくるわモノはとんでくるわ(ショーケンが後日語った内容だとく腐ったトマトやら生卵が実際にとんできたとか)そんな中で「そんなにいややったら、お前らが帰れ!」と客席に怒鳴ったり、わざと客席に背中向けて演奏したりしていたとかーーーーー当時ジュリーがピッグ時代の話をすることなどまずなかったのでとても印象に(ピーが慶応の学生である事と同じくらい)残り何回も録音テープ聞き返しておりました。
なので林さんが作ったからといってシティポップにはならなかった例ですよね。