別府駅にとてもユーモラスな像がありました。説明によると
「1863年、愛媛県宇和島の米問屋にうまれる。小さい時から働き者で有名だった。
30歳のとき大阪に出て、米の相場で成功し、巨万の富をてにする。つけられたアダ名が”油屋将軍”
34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。
3年間をかけてカナダからメキシコまでを旅し、38歳のとき帰国。アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。
46歳のころ、別府温泉へ移り住み、ホテルを経営しはじめた。それがやがて、お金持ちを迎える一流ホテルに成長する。
アメリカで目にしたスケールの大きな観光地づくりを実践。大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、”山は富士 海は瀬戸内海 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげ立てたり。当時はだれも思いつかないような奇抜なアイデアをつぎつぎに実行した。
美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめて作ったのもこの人である。”地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。
湯布院を観光地として開発したのもこの人だった。当時描いていた観光プランは別府-由布院-
久住高原-飯田高原-阿蘇-長崎をむすんで道路をつくるという、九州全体を視野に入れたものだった。
1935年、別府市で死去、73歳だった。くまはちがだいた”ここを世界の観光地にしよう”という夢は、今もこの町のあちこちに生きて息づいている」
となっていました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます