名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

2005年10月の寺だよりに掲載しました デジタルハイビジョン放送

2016年10月26日 21時51分49秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 もうすぐ、地上波でデジタルハイビジョン放送が始まる。これまでよりいい音で画面もきれいというのがうたい文句である。
 しかし、地上波デジタルハイビジョン放送に移行するのは、私たちによりきれいな映像を送るためではない。現在の地上波放送は、広い電波帯域を使っていながら、わずか6局(NHK、毎日、朝日、関西、読売、NHK教育)が独占している。これを狭いところに引っ越しさせて、空いたところに、新しい通信事業を割り当てるためである。 新しい通信事業は、もちろん、インターネットやIP電話(インターネット経由の電話)等である。街中どこでも、無線によるインターネット接続ができるようにしようというのが、この引っ越しの狙いである。
 狭いところに引っ越しをさせるには、これまでと違った新しい方式が必要になるので、デジタル放送にするのだ。つまり、この引っ越しのためにデジタル化するだけで、音や画面がきれいになるのはオマケでしかない。
 言い換えれば、国(総務省)も、テレビからインターネットへという大きな流れを無視できない時代になりつつあるということである。最近、世間を賑わせている「フジテレビ対ライブドア」「TBS対楽天」の騒動は、こうした新しい流れも視野に入れて語られるべきものだろう。

2005年8月の寺だよりに掲載しました ミュージシャン

2016年10月26日 21時46分31秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
  梅の花 答えて曰く 梅の花   (松木淡々)
 これは、松木淡々門外不出の一句である。ウメはムメとも呼ばれるところから、禅問答よろしく、仏教の基本概念である有無を語る句ということになっている。このように、淡々の俳風は理屈に走り判りづらく、今日、その評価は低い。
 しかし、淡々は、焼け残った土蔵で失意と貧困の内に亡くなった小林一茶とは対照的な人生を送った俳人である。江戸時代前期、大阪の商家に生まれ、自らも商いを通じて経済的に豊か。ハクを付けるために、江戸で芭蕉から呂国という俳号をもらったと自称。俳句に点数を付ける点取俳諧で成功し、点者(職業的採点者)としても活躍。釈迦孔子と比べて、弟子三千人と豪語。等々。
 どれをとっても、庶民に嫌われそうな要素ばかりだが、芸術で飯を食うには、今も昔も、芸術的才能以外にこういう側面が必要だろう。最近、立て続けに、ミュージシャンになりたいという若者に出逢って、淡々のことを思い出した。

2005年5月の寺だよりに掲載しました 法顕

2016年10月26日 21時43分36秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 「西遊記」で有名な三蔵法師(玄奘)がインドへ旅立ったのは西暦629年。それより遙か以前、西暦399年に、60歳を過ぎた高齢で、同じく仏典を求めてインドへ旅立った僧がいる。東晋の僧、法顕(ほっけん)である。彼の見聞録が、「仏国記(別名法顕伝)」の名で残っている。

 砂漠には多くの悪鬼・熱風があり、遭えば、たちまち死んでしまい、1人として生き延びる者はいない。空に飛ぶ鳥なく、地上に走る獣さえいない。遠く眺めて砂漠を渡る道を求めても、あてにできるものがない。ただ、死人の骨を標識(しるべ)にするだけである。(仏国記より一部訳出)

 法顕のインド遊学は15年間におよび、その間、インド亜大陸のみならず、今のスリランカまで歩き、多くの仏典と共に、スリランカの土木技術や作業工程管理技術も中国に持ち帰った。
その法顕の伝えた技術を唐で学んで、日本に持ち帰ったのが、空海(弘法大師)である。帰国した空海は、この技術を利用して、香川県の満濃池大修復を成就させることになる。

2005年3月の寺だよりに掲載しました オレオレ詐欺

2016年10月26日 21時41分01秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 先頃、大がかりなオレオレ詐欺(振り込め詐欺)の容疑者グループが逮捕された。
 詐欺などの犯罪では、頭を使って悪事をなすので、犯人を知能犯と呼ぶ。では、知能犯と呼ばれる人間の知能はどのくらいなのか。疑問に思ったドイツの犯罪学者が、詐欺犯と詐欺の被害者の知能検査(IQテスト)を行った。
 常識的に考えれば、だます人間とだまされる人間なら、だます人間の方が頭が良さそうである。ところが、大勢の加害者と被害者を調べてみると、結果は逆で、詐欺の被害者の方が詐欺犯よりも知能検査の結果が良かった。
 考えられる理由はふたつ。ひとつは、だます方は準備万端整えてだましにかかるが、だまされる方は、突然の事態に正常な判断力を失うから。もうひとつは、だまされる方が、欲にかられて正常な判断力を失うからである。言い換えれば、詐欺被害に遭わないためには、あわてないことと欲をかかないことが大切である。
 ところが、世間では、詐欺に遭わないために、信用しないこと、疑うことを勧める。そのような寒々とした態度だけで、詐欺犯の魔手から逃れられるとは思えないのだが。

2004年10月の寺だよりに掲載しました 仏壇

2016年10月26日 19時07分27秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 仏壇は、読んで字の如く、仏を安置する場所。浄土宗や浄土真宗ならば、阿弥陀仏ということになる。仏を安置するといっても、たとえば、阿弥陀仏は、時間的空間的に測定不能の姿も形もない存在である。だから、実際には、阿弥陀仏の絵像や木像を安置する。絵像や木像でなく、「南無阿弥陀仏」の掛け軸もある。浄土真宗の蓮如上人は、抽象的な名号が一番良いと言い残された。
 つまり、仏壇というのは、広大無辺の仏の悟りの世界に通じる心の入口みたいなものである。仏壇の絵像や木像の向こう側にある悟(さと)りの世界の象徴と言っても良い。浄土真宗では、悟りの世界を極楽浄土と呼ぶので、真宗の仏壇は、浄土の有り様を表現している。蓮の花や鳥が飛ぶ様は、浄土の姿を表している。
 だから、もし、あなたの「クソオヤジ」の位牌や過去帳が仏壇に入っているとしても、「クソオヤジ」の魂が入っているのではない。人は愚かで弱いもの。百年足らずの人生を、のたうちまわって生きて、やがて老いて死んでいくのが定めである。そういう厳然たる事実の好例として入っている。いや、ひょっとすると、人間の浅ましくも悲しい有り様を、あなたに教えるために、「クソオヤジ」は「クソオヤジ」として死んでいったのかもしれない。
 こういうわけだから、「クソオヤジが仏壇に入っているから手を合わさない」というのは、大きな勘違いである。