弔 辞
社会民主党長野県連合を代表して、浜万亀彦様のご霊前に深く哀悼の言葉を捧げます。
病気療養中ということはお聞きしておりましたが、これまでもそうであったように、調子が回復し、またいつものように元気で張りのあるお声をお聞きすることができると思っておりましたところ訃報の連絡が入りました。また一人戦後信州社会党を背負ってきた先輩がいなくなることに寂寥の思い強く、悲しみで胸がいっぱいです。
浜万亀彦さんは、全日通労働組合の運動から昭和五四年一九七九年の四月長野県議会議員に初当選、以降六期連続当選を果たし、文教企業委員長、決算特別委員長、監査委員などを歴任し、平成八年第七四代長野県議会副議長をお勤めになりました。この他、長野県労働教育審議会長、交通問題懇話会長、公営企業経営審議会長、総合開発審議会・国土利用計画地方審議会長等の要職もお勤めになりました。
当選した翌年西澤権一郎知事が病気辞任、吉村午良知事と一六年、田中康夫知事と三年、時に激論を交わし、真摯に県民のための県政に尽くしてこられました。働く者の立場から広く県政全般を見渡しての県議会議員活動が認められ、都道府県議会議長表彰、長野県議会表彰などを受け、平成十一年には藍綬褒章及び長野県知事表彰、平成十八年旭日小綬賞をお受けになられています。
一九九一年四期目の当選後に奥様がお亡くなりになられたことは、どんなにか切ないことであったことかと当時を知る人から伺いました。
浜万亀彦さんが籍を置いた日本社会党は一九九六年党名を社会民主党に変更し、当時県連合代表であった今井澄参議院議員が民主党に移籍したことを受け、以降二〇〇二年までの三期五年間社民党県連合の代表をお勤めいただきました。この間、北澤清功衆議院議員の三期目の当選、後継となる山口わか子衆議院議員を誕生させることができたのは、浜万亀彦さんが社民党県連合の代表を引き受けていただいたからこそ実現したことでありました。
二〇〇三年の衆議院総選挙におきましては、「俺はこれまで人にやれやれと言ってきたから、最後は自分がやらなければならない」と、長野四区から衆議院議員選挙に打って出ていただき、当時有事立法の法制化が進む中で一貫して護憲の立場から日本の平和について訴えられていた姿を思い起こします。地元岡谷市では保守革新を問わずご支援をいただきトップの票をいただきました。浜万亀彦さんは昭和十年の生まれ、戦前戦後を生き抜く中で平和憲法を守り抜くことが自身の生き方そのものでありました。
また、常に社会的に弱い者の立場に立ち、権力と立ち向かう時には激しく詰め寄る姿は、日頃温厚な姿しか知らなかった私は一層の信頼を託しあらためて敬意を表する場面でありました。
地元におきましても岡谷工業高校同窓会長、つるみね福祉会理事長など数々の要職をお勤めになり、平成十八年二〇〇六年の集中豪雨災害の時は、社民党調査団にご同行いただき、岡谷市へのお見舞いと共に、現地での復旧に向けてのご助言をいただきました。
ご遺族の皆様には、浜万亀彦さんの政治活動を支えていただきましたことにあらためて感謝を申し上げますとともに、心よりお悔やみを申し上げます。
浜万亀彦さん、私共は生前にいただいたご指導をしっかりと胸に刻み、平和な社会をつくるために邁進をしてまいります。
本当に、ありがとうございました。
どうか安らかにお眠りください。
二〇二一年令和三年一〇月一三日
社会民主党長野県連合代表
長野県議会議員 中川博司
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