有賀松本市長時代、1995(平成7)年に、本郷・里山辺・寿台の3地区に福祉ひろばがつくられました。介護保険制度が始まった2000年(平成12)年には29地区に福祉ひろばが整備され、現在では合併した5町村も含めて35の地区に福祉ひろばがあります。詳細は松本市のホームページ「福祉ひろばとは」をご覧ください。
9月4日月曜日に、私の地元の松本市岡田地区福祉ひろば事業推進協議会が主催して、2014(平成26)年11月22日土曜日に白馬村を襲った神城断層地震で半数の家が倒壊したにもかかわらず奇跡的に一人の犠牲者も出すことがなかった神城地区堀之内への視察に同行させていただきました。
当日、お話をしてくれたのは当時堀之内地区7組の組長であった柏原武幸さんと白馬村社会福祉協議会松澤孝行事務局長です。
最初に、概要を知ることのできる記録ビデオを鑑賞。その時のことを語る生々しいお話が語られていました。「天井と床に挟まれ身動きが取れなかった。家族や近所の方が助けてくれたが、助け出されまでの時間は長く感じ2年か3年がたったような気がした。『がんばれ、すぐ助けてやる』という声が励ましになった」(励ましの言葉は大事。生きた心地がしないというのはこのことだろう)「おじいさんとおばあさんが下敷きになっていた。おばあさんは自力で脱出できたが、おじいさんは足を挟まれて身動きがとれない。フォークリフトで持ち上げて助け出した(フォークリフトがある場所を知っていた)」など。
ビデオの中で信州大学の大塚勉教授がなぜこの地域の特徴を説明している。「南北に糸魚川静岡構造線が走っていて、活断層がいくつもある。堀之内地区は、神城断層が糸静構造線にぶつかる狭間にあり、軟弱地盤で渚現象が起きた」とのこと、私から「過去に自身の経験はあったのか」と尋ねると、柏原さんからは「調べてみたら300年前に地震があったという記録がわかった」という。すべての方がこの場所での地震の経験はなかったということです。
ビデオを見た後、あらためて柏原武幸さんからお話を聞く。「地震は平成26年11月22日午後10時8分県北部を震源とするマグニチュード6.7の地震が発生白馬村での観測地点では震度5強(ただ、糸静構造線の西と東では被害の大きさが異なることから、神城地区での震度はさらに大きかったことが想定される:中川)。実は、この日の昼間、白馬村社会福祉大会が開催されていた。白馬村の人口は8404人(岡田地区は7325人)で、このうち家屋被害は、30の集落のうち3つの集落が被災。全壊42戸、大規模半壊13戸、半壊22戸、一部破損164戸。全壊被害があったのは、三日市場6戸、堀之内33戸、大出1戸、峰方2戸で、8割近くが堀之内に集中していることからも地層的な影響が推測される。
堀之内地区には隣組が8組あり、柏原さんは7組の組長をしていました。7組は10軒のうち9軒が全壊、うち2軒が倒壊4人が下敷きとなり救出にあたりました。1時間から1時間半の救出作業の結果、重症3名。このうち一人は骨折。近所の目の不自由な方のところへ駆けつけ、携帯の光をかざしてみたら、車庫へ移動していた。ほかの方が先に助けにきていてくれていた。もう1軒は、たまたま飯山に嫁にいった娘が帰ってきていて、110番して警察に救出されたが、当の飯山へ嫁に行った人が当時堀之内にいたということが分かるまでに3日かかっている(一昨年2021年8月15日の豪雨災害で犠牲になった方も辰野町からお盆で帰省していた時の事だった。常に住んでいる人への安否確認はできるが、その時たまたま訪れていた方の情報は得にくい)。父親と娘が下敷きになった家は、「あずま会」が駆けつけ救出した(「あずま会」は、移住者や若者などでつくる会)。
また、11月22日は土曜日で柏原さん宅も普段は二人暮らしですが、雪囲いの作業のため子どもや孫が5人きていた(土日休日だから村外の親戚がいる可能性がある)。20時ころ就寝、突然強い突き上げがあった。ベッドの下に非常用のヤッケなどが置いてあった(当時、消防団長はお風呂に入っていた:ビデオ証言)。組長として見回り、救出作業が始まった。その後第一次避難所のサンサンパークなどに避難している。
松澤社会福祉協議会事務局長の話では、村は22時20分に災害対策本部が設置され、住民同士の安否確認を要請、22時30分ふれあいセンターに1次避難所を開設している。
避難所では、毎日対策本部の報告会が行われ、7組としても10分くらいの集会を行い「みんなで同じ行動をしていきましょう」と確認をした。
婦人会の炊き出しが始まり、24日にはボランティアセンターが開設され延べ1809人の方が参加してくれている。白馬高校の生徒がボランティアセンターで支援物資の分別作業をしてくれた。正月前の応急仮設住宅への引っ越しを目指し、12月8日着工、29日に入居可能となり、28世帯80人が入居。
ほぼ3年で再建できた。34戸が新築した。全壊76軒のうち2軒は他へ移住した。柏原さんは民宿をやるつもりで建てた家だが大黒柱を残して全壊してしまったが、再建した。復興住宅は10棟18世帯が入ることになる。
堀之内地区では毎年防災訓練をしている。消火器の扱いや消火栓からの消火訓練、民生委員の時は新潟県中越沖地震の経験を研修会で聞いたこともある。防災マップをつくり、3年に一度見直しをしてきた。障がい者など要支援者への駆けつけも役割を決めてあった。実際に10分後には駆けつけていた。地域の絆、自助、共助というが、①火が出なかったこと、②動ける人はとっさに行動した、③近所のことは寝床や通帳の位置まで知っている。④屋根に雪が無かった。瓦を鋼板に変えてあった(重くなかった)。⑤家の多くは切妻つくり。柱や梁が太く、ホゾ(くさび)が効いた。⑥あってよかったもの=ジャッキ、単管、ハゼ棒、電灯、携帯電話。
こんなことがあれば良かったこと=①対策本部の情報が末端まで行き届かなかった。②支援物資やイベントなど避難所とその他に避難している人に差があった。
柏原さんは、東日本大震災で宮城県閖上(ゆりあげ)地区の閖上保育所で園児54人全員が避難をして助かった記事を資料で示してくれた。当時、閖上保育所長だった佐竹悦子さんは「閖上に大きな津波は来ないという話も聞いたが、近くの石碑には1933年(78年前)の昭和三陸地震による建物被害や『地震があったら津波に用心』と警告が書かれていて、避難マニュアルを毎年見直し、避難場所、渋滞しない避難経路を見つけることなど避難訓練を続けてきたことが、全員が避難できた「奇跡」につながった」と語っている。
以上が、お話の要旨である。この神城断層地震で一人の犠牲者が出なかったことから「奇跡」と言われる。お話を聞く中で「奇跡」を生み出したものが、日頃の防災訓練であり、日頃の近所付き合いであることを改めて確認した。私から質問で「移住者はいらっしゃるのか、移住者の皆さんとの交流は日常的にあるのか」聞いた。柏原さんは「移住者というか、養子で来られた方などが中心となって『あずま会』がつくられている。消防団長もその意味でいえば移住者(養子)で、気寄りがいい」というお答えでした。考えてみれば、「移住者」という言葉も変な言葉だと改めて思う。女性の多くは嫁いでくる移住者だ(もちろん男性の移住者もいる)。岡田地区もそうした元気のある移住されたきた女性(お嫁に来た方)が元気だ。男性は比較的外の付き合いが中心で、村内のことは退職してからでないと目が向かない。その点、女性は子どものPTAなどで付き合いが日常的にある(最近ではPTAを解散したというお話も聞くし、女性も働く人が増えているので、そうとも言えない部分もあるが)。気寄りのいい地域をつくることは、自分としては青年会や岡田夏祭りを通じて目指してきたことだということを改めて思い起こしました。
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