こんにちは「中川ひろじ」です。

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玉置利幸くんのこと

2024-08-14 09:04:23 | 

弔    辞

飯田市職労青年部長の玉置利幸君に行き会ったのは、私も松本市職労青年部長のときでした。職場の小さなことでも取り上げて青年部として独自要求書をだして交渉しているという報告を青年部の大会で聞いたのが最初だったと思います。

自治労の北信地連の夏季交流集会では、長野県本部の代表として飯田市職労青年部は「そんなふうに思えてきた僕ら」という構成詩をつくってきました。この時の劇中歌「怒れ、怒れ、怒れ」は、今も自治労労働歌として歌い継がれています。青年部の中で毎晩のように議論して、保育園の園服の支給を要求する構成詩でした。「園服のインク染み付いて明日はとても着られない。もう一着あったなら」という歌とともに繰り広げられる青年部独自要求の様子を芝居にしたてての発表でした。私は正直に「すごいな」「やるな」と感心しきりでした。飯田市職労のほかにも小諸市職労、須坂市職労なども青年部独自要求に取り組んでいました。私は「負けていらない」と思い、松本市職労も青年部独自要求に取り組んだのです。

玉置利幸君は、バレーも得意でした。自治労青年婦人労働学級のスポーツはソフトボールが多かったわけですが、雨が降ればバレーボールをやりました。私はバレーボールは得意ではなかったので、ここでも玉置君がまぶしく見えたものです。

その後、お互い声をかけあうようになり、自治労長野県本部の青年部長を私が引き受けるとき、玉置君に「どうしても」と懇願し副青年部長を引き受けてもらいました。飯田市にも何度も通い、どのくらい二人で酒を飲んだか分からりません。実家のいわきやにも泊めてもらいました。お互いの恋の話もしました。

当時、青年部と婦人部は一緒に常任幹事会を行っていました。松本の浅間温泉にある尾上の湯に宿泊し、夜遅くまで議論をして、それから一杯やり、朝にはそれぞれの職場に戻っていきました。玉置利幸君は、その時の仲間のことを、いつも気にかけていました。

私は、その後自治労を離れ、社会主義青年同盟の専従になりましたが、反核平和の火リレーで飯田市にいけば必ず顔を見るようにしていました。いつだったか、鼎の支所から社協の事務局に変わった頃だったと思いますが、心臓の病のことを聞かされました。一日のうち半日くらいしか仕事ができないような状態だというのです。奥さんのつながりで東大病院にかかり、最終的には心臓移植するしかないという判断でした。

毎月東大病院に通い、あるいは入院し、飯田市立病院との連携も始まりました。一年に一回か二回、飯田市を訪れる際には、必ず連絡をして顔を見に行きました。会うたびごとに、しんどさはきつくなっていました。

最後にあったのが、先月の反核平和の火リレーの出発式で飯田市を訪れた七月九日です。とりとめのない話をした中で、「移植をしても体力がもたないと医師に言われた」というのです。私はびっくりしましたが、淡々と話す玉置君にあわせて「そうか、わかった」としか答えることができませんでした一時間ほどお邪魔をして、奥さんの職場を訪ねて事情を確認しました。それでも、「玉置のことだからしぶとく生きるよ」と言い残してきました。

八月十四日水曜日、松本は朝方土砂降りでした。私は雨が小雨になってきたので、日課としている街頭宣伝に出かけました。帰ってきたところに奥さんからの電話。「ああ、ついに」と一瞬で判断しました。八月八日から入院していて、十四日朝五時半に息を引き取ったとのことです。

玉置、お前はよく生きたと俺が証明するよ。人生は長いか短いかじゃない。どう生きたかだ。玉置は市役所の仲間にも大きな信頼を得ていた。青年部のとき楽しかったじゃないか。立派に生ききったと俺は思うよ。だがな、病気になってからは酒を酌み交わすことができなかったことが唯一悔やまれる。まあ、そのうち俺もそっちに行くから、その時まで待っていてくれ。じゃあな、またな。

二〇二四年八月二十一日

中川博司

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