城犬のおいど

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武蔵国 平塚城

2024-08-14 06:59:13 | 城館
武蔵国 平塚城 <ヒラツカジョウ>
別称豊島城
城郭種別城郭
縄張り平山城
築城者豊島近義
築城年平安時代
廃城年1478
主な城主豊島氏
指定史跡なし/不明
住所東京都北区上中里
[Google] [地理院地図]
城址碑なし
現地案内板あり
スタンプ
現存建造物なし
復元建造物なし

概要
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を収める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神並びに別当城官寺縁起絵巻の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくたとされている。

駐車場


平塚神社
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流近義という人物が平塚城という城館をつくります。
平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれています。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明10年(1478)1月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の中誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
※現地看板より

石室神社(石神明神)
豊島氏の後、平塚城主となった蘓坂兵庫秀次は平塚明神を篤く祀った。秀次はみまかりて社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫病の厄災に御神徳を顕したと伝えられる。
※現地看板より

御料稲荷神社

菅原神社(平塚天神社)

拝殿

本殿

蝉坂

太田道灌が平塚城を攻めた際の「攻め坂」が転じて「蝉坂」と呼ばれるようになったという。

2021/12訪問

周辺地図

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