吉野梅郷
日向和田の駅を降りるとはじめて、今年の梅がかおった。春の空はすっきりとは晴れてくれない。遠景は粒の細かいおしろいを、わずかにつけてはたいたように白くかすんでいる。道路をのったりと埋める車から目を上げてみると、駅のちょうど向かい側の山の中腹が、白と薄く削った赤のパステルをさっと掃いておいたように盛り上がっていた。吉野梅郷は麗らかな花の盛りを迎えていた。
今年の冬は日射しがあたたかく、家の周りでは日当たりと温度にしっぽりつつまれた気の早い梅が昨年の大晦日にはほころびはじめていた。それも、一月の寒さで落ち着いたかと思いきやの青天続きに、一月の晦日には既に6部咲きの様相を呈していて、冬の空気に髪の芯まで冷たくされながら見上げた枝には濃い桃色の紅梅と、レンガ色のがくをお尻に敷いた白梅が嬉しそうに咲いていた。鼻を近づけると鼻腔の奥でかすかに花のかおりを感じたが、かつて嗅いでいた生花特有のみずみずしい梅のかおりはしなかった。整理された宅地とひきかえに斬られた、子供の私の腕が回りきらないほど太く、かおりの強い堂々とした白梅の跡にいまは、若々しくひきしまった細身の白梅とさんご色をした八重の梅がうきうきと咲いている。なんとなく、「いまどきの」とつけたくなるカップルのようでわずらわしい。夜に脇をすぎてもかおらない梅。
お祭りに騒ぐ梅郷の道路を、駅からまっすぐに歩いて小高い山へ向かう。風を防ぐ林を残してくりぬいた谷あいの坂一面が、青梅市自慢の梅の公園だ。青梅中の春を寄せ集めて山にぎゅうと押し込んだ梅の塊だ。出迎える蝋梅の、水仙と沈丁花を混ぜてミネラルウォーターで薄めたようなさわやかなかおりを通り過ぎると、金色のさんしゅゆがたんぽぽを煮詰めたような黄色のつぶつぶをさりげなく、でもほこらしげに空へさし出している。坂をゆるゆる上ってゆくたびに梅が挨拶をする。鴛鴦、鶯宿梅(おうしゅくばい)、八重旭、酔心梅(すいしんばい)、書屋の蝶と、名前だけでもしとやかな春が目の前で思い切り枝を伸ばして花ひらいている。その開いたひとつひとつが一面の空気に漂っている。どこで息をしても梅がかおらない時が無い。それでいて、梅のかおりは息苦しいということがない。枝ぶり、花、かおりのすべてが調和していて、どれかが極端にきわだつということがないのだ。
中での気に入りが二本。ひとつは白梅、ひとつは紅梅。
林ぞいの、頂上へ向かう道の途中に植わる白梅「月影」は、その名も青梅という地名にもぴったりとそぐった梅だ。日に透かすとほのかな緑が花びらに透け、空色とも若草色ともなんともいえないみどりの影が白にさす。月影は蒼い白梅なのだ。
花を支えるがくが草色というそれだけで、他の梅には無い青の影が「月の影」の名にふさわしく、夜空をこうこうと照らす冴えた月光に似て涼やかな顔を見せている。
もう一つの「朱鷺の舞」は、東側の斜面を見下ろすあずまやの傍にいる。青梅市生まれの八重の紅梅は、おくゆかしく花びらを重ねた底に朱鷺色の鮮やかな紅を流し込んで、小さな牡丹を枝に咲かせている。朱鷺が一羽静かに羽を広げて飛ぶ瞬間の羽毛のさざめきのように静かでおとなしい舞だが、この梅は愛らしく咲く。
色の薄い梅を楽しんだ後は、紅梅の「紅」にふさわしい濃さの紅梅たちを近くで眺めるとよい。たぶん、山から下りれば盆栽でしか目にすることのない、家の近くで見ていたあのピンクは「紅梅じゃない!!」と叫びたくなるほどあでやかな紅梅たちが、惜しげもなく何本も何本も山を彩ってしゃんと咲いている。観てやって欲しい。これほどの紅色が空に向かっているすがすがしさはそうそうに無い。
全ての梅がめいっぱい咲くこの一瞬、青梅の春をもらって今年の春が始まる。
日向和田の駅を降りるとはじめて、今年の梅がかおった。春の空はすっきりとは晴れてくれない。遠景は粒の細かいおしろいを、わずかにつけてはたいたように白くかすんでいる。道路をのったりと埋める車から目を上げてみると、駅のちょうど向かい側の山の中腹が、白と薄く削った赤のパステルをさっと掃いておいたように盛り上がっていた。吉野梅郷は麗らかな花の盛りを迎えていた。
今年の冬は日射しがあたたかく、家の周りでは日当たりと温度にしっぽりつつまれた気の早い梅が昨年の大晦日にはほころびはじめていた。それも、一月の寒さで落ち着いたかと思いきやの青天続きに、一月の晦日には既に6部咲きの様相を呈していて、冬の空気に髪の芯まで冷たくされながら見上げた枝には濃い桃色の紅梅と、レンガ色のがくをお尻に敷いた白梅が嬉しそうに咲いていた。鼻を近づけると鼻腔の奥でかすかに花のかおりを感じたが、かつて嗅いでいた生花特有のみずみずしい梅のかおりはしなかった。整理された宅地とひきかえに斬られた、子供の私の腕が回りきらないほど太く、かおりの強い堂々とした白梅の跡にいまは、若々しくひきしまった細身の白梅とさんご色をした八重の梅がうきうきと咲いている。なんとなく、「いまどきの」とつけたくなるカップルのようでわずらわしい。夜に脇をすぎてもかおらない梅。
お祭りに騒ぐ梅郷の道路を、駅からまっすぐに歩いて小高い山へ向かう。風を防ぐ林を残してくりぬいた谷あいの坂一面が、青梅市自慢の梅の公園だ。青梅中の春を寄せ集めて山にぎゅうと押し込んだ梅の塊だ。出迎える蝋梅の、水仙と沈丁花を混ぜてミネラルウォーターで薄めたようなさわやかなかおりを通り過ぎると、金色のさんしゅゆがたんぽぽを煮詰めたような黄色のつぶつぶをさりげなく、でもほこらしげに空へさし出している。坂をゆるゆる上ってゆくたびに梅が挨拶をする。鴛鴦、鶯宿梅(おうしゅくばい)、八重旭、酔心梅(すいしんばい)、書屋の蝶と、名前だけでもしとやかな春が目の前で思い切り枝を伸ばして花ひらいている。その開いたひとつひとつが一面の空気に漂っている。どこで息をしても梅がかおらない時が無い。それでいて、梅のかおりは息苦しいということがない。枝ぶり、花、かおりのすべてが調和していて、どれかが極端にきわだつということがないのだ。
中での気に入りが二本。ひとつは白梅、ひとつは紅梅。
林ぞいの、頂上へ向かう道の途中に植わる白梅「月影」は、その名も青梅という地名にもぴったりとそぐった梅だ。日に透かすとほのかな緑が花びらに透け、空色とも若草色ともなんともいえないみどりの影が白にさす。月影は蒼い白梅なのだ。
花を支えるがくが草色というそれだけで、他の梅には無い青の影が「月の影」の名にふさわしく、夜空をこうこうと照らす冴えた月光に似て涼やかな顔を見せている。
もう一つの「朱鷺の舞」は、東側の斜面を見下ろすあずまやの傍にいる。青梅市生まれの八重の紅梅は、おくゆかしく花びらを重ねた底に朱鷺色の鮮やかな紅を流し込んで、小さな牡丹を枝に咲かせている。朱鷺が一羽静かに羽を広げて飛ぶ瞬間の羽毛のさざめきのように静かでおとなしい舞だが、この梅は愛らしく咲く。
色の薄い梅を楽しんだ後は、紅梅の「紅」にふさわしい濃さの紅梅たちを近くで眺めるとよい。たぶん、山から下りれば盆栽でしか目にすることのない、家の近くで見ていたあのピンクは「紅梅じゃない!!」と叫びたくなるほどあでやかな紅梅たちが、惜しげもなく何本も何本も山を彩ってしゃんと咲いている。観てやって欲しい。これほどの紅色が空に向かっているすがすがしさはそうそうに無い。
全ての梅がめいっぱい咲くこの一瞬、青梅の春をもらって今年の春が始まる。